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子どもに優しいとは何か、親がやるべきかという話はSNSで扱うには結構難しい話

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なんか最近SNSでこの手の話が多いですね

パン屋でパンを触ったことに対してもっと寛容であってほしい

新幹線で2.3歳に声をかけて、静かになった。親は何をしている

みたいなね

私も絡まれることも増えてきています。まぁ自分の意見を表明したから当たり前なのですが…

ここでは自分の考えを整理しておきたいと思います


「寛容な社会」は自分と他者が双方向が「寛容」であるから実現できる


パンの話でいうなら、

「お子さん連れに対してもっと優しくしてほしい」

みたいな気持ちからくる呟きなのかな

と感じましたが、これを言うなら

「パン屋さんにもお子さんがいて、それを支えているかもしれない」

という発想も持たなけれなばりません

もし、いろんなものを触る可能性の高いお子さんがパンを触り、そこにパン屋さんが何も言わなければ、「不衛生なパン屋」さんというレッテルが張られつぶれてしまうかもしれません。

そうなった場合、それは「お子さんに優しい、寛容な社会」と言えるのでしょうか

このパン屋さんの結末としてパンを買い取ってもらったという話でしたが…

もし「寛容な社会」を目指すならば、

「パンを触ってしまったお子さんにも事情もあるかもしれない」

「パンを触られたパン屋さんにも事情があるかもしれない」

お互いがこう思わなければなりません

どちらかに負担が偏る社会は必ず「不満」という歪みが発生します

他責思考と自責思考で考えてみることが大事、いろんな視点で見ることが大事 そして他責思考は自分に跳ね返ってくる話


新幹線の話はどうでしょうか

「子どもが親を静かにさせないことの責任」についてそれを批判する意見も多かったと思います

・お子さんが大きな声で鳴いていたらデッキや人のいないところに連れていくのが「常識」

・「人に迷惑をかけてはいけない」

という考えの元の批判だと思います

それは「正論」で「正しいこと」なんだと私も思いますし、他者に求めるのは間違いではないと思います

しかし、ここでは色んな視点で物事を見ることが大切なのです。一方向的な事象の見方は、簡単に物事の本質からズレるきっかけになってしまいます

例えば「他責思考」で この呟きでいうなら

・「子どもが泣いているのに静かにさせないのは親の責任である」

・「人に迷惑をかけないという社会の常識に反していることをしている人は2.3歳児であっても良くない事である」

・「良くないことをしているんだから、強めに注意しても許されるはずである」

・「良くないことをしているのだからSNSにこの出来事をあげて不特定多数に同意を求めても許されるはずである」

の「思考」が読み取れます

「自責思考」でいうなら

・「お子さんが泣いているから自分にも何かできることはないだろうか」

・「困っている人を助けることも常識だから声をかけたほうがいいだろう」

・「お子さんの声が周囲に影響を与えると思うから、近くにいる私が親御さんに声をかけよう」

という形になります

人によって思考の傾向は違うと思います

私はこの「思考」どっちが良い、悪いとは思っていません。感情的になったときは私もどちらかの思考に偏っている事でしょう

しかし、それによって何が起こり、何をしなければならないのかは把握しておく置くことは必要だと思っています

特に「他責思考」は注意が必要です。この「思考」は多くの場合、「自分の主張がまっすぐ自分に跳ね返ってくる」性質があります

トラブルの元なのです

例えば

「良くないことをしているんだから、強めに注意しても許されるはずである」みたいな考えに対して

「あなたも晒すという良くないことをしているんだから強めに注意しても許されるはずである」という論理を出されるのです

「子どもが泣いているのに静かにさせないのは親の責任である」みたいな考えに対しては

「子どもが泣いていることに対して特に知識もなく威圧的に注意をすることを選択したこの人を育てたのはこの人の親の責任である」

みたいな土俵に上がってしまうのです

追随するコメント群も「これは親の責任だろゴミ」みたいなものも見受けられたのですが、結局これも

「意見が違う人にゴミと言ってしまうように育てた親の責任」が生み出されてしまいます

不毛な争いになりますし、最終的に自分の身を守るために、自分の振り上げた拳、振り下ろした拳の責任をとりたくないから自分と同じ意見の人を求めてさまよう

みたいな結果になります

これが「正しい大人」を自称する姿なのか という話になります

無知、意見の偏りが話を複雑にしたり、目的が具体案が出ないストレスの発散になっている


そもそもなのですが、「パンを触ること」「お子さんが泣くこと」に対して知識や、「注意したら黙る」みたいな前提や議論の中に知識の偏りや無知が見受けられます

お子さんによってはまだルール理解、善悪の判断が難しくなんでも触ってしまうこともありますし、そこには認知理解の問題もあります

泣くことで少ない語彙の中自分の気持ちを表現しようとしますし、体調不良の時だって漠然とした不安で泣くこともあります

他人が話しかけたら警戒して黙ってしまうこともよくありますし、言われたことも理解していないことも多々あります

まずこれを前提に議論を進めなければならないのに、理解しない、見ようとしないまであると思います

この議論の目的が「良くないことをした人を晒してストレス発散をしよう」になっている人にはある意味こういった話は邪魔なのです

「親の責任」とするアカウントが称する「正論」に「指標」となる具体的な対応案は出てこないのです




元々子どもだった我々が、大人になったら子どもに対して関わる知識も技術もなく、「親の責任だ」と居直るしかしか方法がなく、

「こんな親駄目だよね」とSNSで晒すこと

「なんで親がやるべきことを私たちがやらなければならないの?」

ただ、それしかできることしか能がないのだとしたらあまりにも情けなく感じます

決して駄目な意見ではありませんが、社会構造的に人との共助に頼って生きている我々の社会において、「自分一人で生きている」という「うぬぼれ」が過ぎるのではないでしょうか?

これもSNSにおける一つの意見なのですが、SNSの性質上

相手の表情も分からない

声色も分からない

状況の詳細も分からない

人格も知識も経歴も分からない

そういった

「コミュニケ―ション」において必要不可欠なものも欠けた状態での議論

を行わなければならないので、建設的な話ができないのはある意味当たり前なんだと思っています

そういったことを前提にSNSで主張をぶつけ合いたいものです


以上になります


SNSとの付き合い方の記事

SNSで自分の精神衛生を保つために私が大切にしている記事です


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