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わたし、擬古文がスキなんです♪
みなさん、突然ですが『擬古文』ってご存じですか?
マイナーな分野なんで、国文学にどっぷり浸かりこんだ人にしか知られてないかもしれませんね。
文学史の本を繰ってみますと、主に江戸時代中期から明治の頃合いに流行したとあります。一般的には、幸田露伴や尾崎紅葉、樋口一葉あたりが知られてます。
簡単に解説すれば、源氏物語などに代表される中古日本語(平安時代の書き言葉)を模した文章のことです。文語体などとも表現されますが、一種の書き言葉です。
それに対して話し言葉で書く口語体というのもあります。現代ではほぼこちらの文章しか流通してないですね。二葉亭四迷などでおなじみの言文一致運動以降主流となっています。
一言でいえば分かりやすい文章です。特に現代のSNSなどでももてはやされてますよね。多くの人が読める文章を書きなさい、なんて文章指南もよく見受けられます。
それでもわたしは主張します。
擬古文が大好きなんです!
書き言葉には一定のリズム感があります。歴史的にみても、公的文書には漢文(和漢文)もしくは和漢混淆文が用いられてきました。韻を踏むっていう表現がありますが、あれは漢詩や一部の漢文から派生していたものなんです。
つまり、日本の古典文学は仮名文学を含め、漢文(和漢文)を前提にしたものであり、リズム感を重視した文章を織り込んでいるわけです。江戸時代に木版印刷が盛んになるまで、文学は一部のエリートのみがたしなむものだったんです。だからこそ上質な文章が好まれたわけです。
銀の木犀の香の流れる闇、灯の光りの下にぼつと白い花、どうも御覚えが有りさうな気がしてなりませぬ、と云はれて悄然と総身の毛孔立ち、思はず女を確と見んとすれば、いづくより吹き入るか陰風さつと渡って襟にも懐にも氷を挿し込まるゝ心地し、燈火息つくが如く瞬いて、明るさの中に暗さの浪の打ちしきれば、一明一暗半顕半陰、其処に其の人ありとは見えながら(以下略)
現代の小説とはまた違った独特のリズム感もそうありながら、前世の妻に再会するといった前近代的な物語も面白味があります。
二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰う犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりとして洗い髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸もと計の白粉も栄えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱヽヽ長烟管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ(以下略)
長々と引用しましたが、主人公であるお力さんの初登場シーン、文語体ならではの歯切れのよさ、何度読み返しても惚れ惚れとしちゃいます。
一葉さま、萌え萌え〜♥
もちろん、現代の口語体の作品にもすばらしいものはたくさんあります。
しかし、個人的には映像作品やインターネットに押し込まれて小説自体が埋没しているに見受けられます。
エンタメ性の追求が文学の興隆に貢献してきた時代もありましたが、媒体が乱立する昨今限界が近づきつつあるのではないでしょうか。
今こそ近代文学初期に流行した美文主義を復活させるべきだと考えます。
美術鑑賞や茶道などのようにひとつの芸術作品としてその内部に含有する美学や世界観を堪能することを、文学作品にも許可すべきなのです。
やはり芸術作品には、一定の価値基準(極めて排他的な)が必要になってくるのではと思われます。
分かりやすい文章が叫ばれる中、読書の獲得は難しいかもしれませんが、令和版の擬古文で世に問いかけるのも一興かもしれませんね。
好事家のみなさんのお力を結集して、今こそ文学の復権を叫んでいこうではありませんか。
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