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79年前の事と私

8月9日。
長崎に原子爆弾が投下された日。
私は父方の祖母が被爆体験者。
母方の祖父(既に他界)が被爆者の被爆3世に当たる。

生まれ育ったところは母の実家があった地域。爆心地から2キロ圏内。
今は対岸に長崎スタジアムシティが間もなく完成するが、昔は三菱の工場が見えるところ。
私が卒業した小学校・中学校・高校は戦前からある古い学校で、79年前も当たり前に存在している。
原爆では児童・生徒・教師と亡くなっている。

8/9は長崎では登校日になる。
この日は体育館で講話を聞くことになっている。
話を聞くのは大抵その時教師をしていた方だったような。
そして原爆が投下された11:02に黙祷をしていた。
小学校は私が通っていたときは被爆校舎が普通にあって、創立100年に慰霊碑が完成した。小学校には必ずある(今はどうなのだろう)二宮金次郎像がなくて土台?しかなかった記憶があるし、防空壕も残っていた(立入禁止)。
小学生の時に原爆って怖い。と思った話は、

「廊下に怪我していた人が寝かせられていた」

それは今も思い出すと怖い。

中学校は確か毎月9日に平和集会があっていて、その日は校長室に飾っている原爆で亡くなった教師の写真が舞台の上に飾られていた。
私が3年生の時に校舎の建て替えが決まった。
戦前からある学校であることは少し前でも触れたが、被爆校舎だった。地下室が見つかったりと(卒アルに載ってる)まぁ色々とあったけどこの年の8月に取り壊された。

高校は8/9が登校日ではなかった。
ただ「復興記念日」というのがあった。

昭和20年10月7日に学校が再スタートした日らしく、私が入学した年からこの日は創立記念日と同じく休みになった(10/7は長崎くんち)。
学校で原爆についての話聞いたことない。

結婚して住んでいるところが同じ市内でも被爆地域ではないこともあって
「まちなかと乖離している」
と今でも思っている。
同じ市民でも旦那は原爆資料館へ行ったことがない(子どもの頃は自治体も違ったし、教育委員会の方針もあったのでは?)。

放送大学の1回目在学(これば説明すると長くなるので割愛)の面接授業で気になるものがあり、卒業要件も満たしていなかったので履修することに。

「核兵器のない世界は可能か」
というタイトル。

授業は凝り固まった平和学習を受けていた私には目からウロコだった。その前に
放送大学長崎学習センターがある長崎大学には、長崎大学核兵器廃絶研究センターがある。
また、長崎大学文教キャンパスは戦時中は三菱兵器工場がありここでは学徒動員されていた学生が亡くなっている。
私にとっては小中学校の平和学習の記憶が蘇る授業となり、授業の最初の自己紹介で

「生まれ育ちも長崎市で小中高と戦前からある学校の卒業生」
「母方の祖父が被爆者の被爆3世」
「爆心地から2キロもないところで祖父は被爆したけど自宅にいたので助かった」

自己紹介で
「祖父は被爆したけど自宅にいたので助かった」と言ったのは、母から聞いた

「じいちゃんは家の中にいたから原爆のときは助かった」

祖父は私が小さい時に60代で亡くなっているので被爆体験は聞いたことがない。1度だけ祖母に連れられて祖父が亡くなった翌年の平和記念式典に行った記憶がある。祖母が参列するって言うのは

祖父が被爆者

ということを証明することに。
その時に初めて見た被爆後の長崎の写真。トラウマになってはいるのだろうけど、何回も見ていることもあり怖さとトラウマと長崎では当たり前という気持ちがある。ただ、これが全部カラー写真だと心に深い傷を負っていたかもしれない。

祖父の記憶もあまりない。
ファミリーヒストリーというNHKの番組に福山雅治が取り上げられた時に、父親の被爆体験の話がありそれを観ていて「祖父と似てる」と思った。数年前のLINEニュース特集で長崎原爆の記事があり、その時に載っていた画像に母が生まれ育った家近辺があってびっくりしたから言ってることは本当だと。

2023年4月。
統一地方選挙の期日前投票をするために長崎市役所へ行った。
期日前投票もおわり、ATMでの用事を済ませたあと、近くに置いてあった閲覧できる大っきめの冊子に目がいった。
私が生まれるちょっと前に長崎市が作った原爆投下前の住宅地図だった。
頭の中に「家の中にいたから助かった」記憶があったので興味本位で探してみると、母の旧姓と親戚の名字が書かれた地図を見つけた。
その親戚の名字は小さい時によく両親に連れられて行っていたおじさんの姓だった(母のおじに当たる)。その時は「戦時中おじさんたちと祖父と一緒に住んでたんだ」というくらいしかなかった。

父が3月に亡くなり帰省する。

何故か私はふと母に
「戦前の再現した住宅地図が市役所に置いてあって見たんだけど、そこにおじさんの名前もあったんだけど…」と言うと
「原爆でおじさんところの子どもが死んだんだよ」と。

初耳だった。

私にはもう一人親戚がいたってこと。

それから先は何も聞けなかった。

旦那の伯母からはこんなことを聞いた。

キノコ雲が見えた。

この時期になると香焼の川南造船所で撮られたキノコ雲の写真がネットでよく出てくる(東京大学の渡辺教授のポストです)。
2024/08/09もポストされていた。
その地域の近くなので伯母の言っていることは間違いないと思う。

多分調べようと思えば当時の住んでいる地域のこともわかるかもしれないけど、私が興味があるのは原爆投下後の復興の歴史(親が長崎を離れてから余計興味があるけど、卒論するまでの気力はない)なのだ。原爆で全て焼き尽くされた長崎がどのように復興していったのか。両親が生まれた被爆3年後の長崎はどんな世界だったのかが気になっている。

2024/08/09は私が49年生きてきた中で特別な日になるのかもしれない。


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