【哲学】未来・過去を含めた世界の全ては既に決まっているのではないかという話【決定論】
初めましての方は初めまして。そうでない方はいつもお世話になっております。朝霧くもりと申します。
突然ですが、みなさん人生は一本道だと思いますか?
……かなり曖昧な問いなので、「人生は決まったレールの上を走っているだけ」と言う人もいれば、「未来は自分の力で切り開ける!」などの希望的観測を持っている人もいると思います。
しかし、この問い事態に正しい答えは現状ありません。そもそも実体験としては「未来は決まっていない(自分の行動によって変化する)」と誰しも感じていることでしょう。しかしながら、物理学的・哲学的に考えると、必ずしもそうではない可能性があります。
「未来は決まっている」と言う考えを「決定論」、「未来は未確認である」と言う考えを「非決定論」と言い、この「未来は決定論的と非決定論、どちらに基づいているのか」と言う問題は多くの哲学者の頭を悩ませている問題です。
今回はそんな問題について、簡単に自分の思っている事を述べていこうと思います。素人意見なので専門家の方大募集です。
それでは行ってみましょー!
本編の前に:決定論は強者の理論
まず結論から言えば、私は「未来は既に(一部分だけでも)決まっており、その筋書きに沿って我々が生きているだけ」だと思っています。
勿論筋トレをすれば従来はつかなかったはずの筋肉は付くし、勉強を頑張れば頑張らなかった時より良い大学に入れるでしょう。
しかし、それは「過去→未来」の順に時間が流れるとあなたの頭が認識しているからであって、因果は逆でも良いはずです。
つまり、「筋肉が付く」という未来が先にあって、あなたはどのような人生を歩んでも最終的には筋トレをしてしまう。「良い大学に入る」と言う未来が先にあって、そこまでの過程で小・中・高と努力するタイミングが変わるだけで、どちらにせよその大学には入れていた。
このように考えることも出来ます。「過去→現在→未来」ではなく、「未来→現在→過去」と考えても良いということです。
しかしながら、一つ注意して欲しい点があります。「良い結果は事前に決まっていた」と考えることは特に問題になりませんが、「悪い結果を回避する手段は無かった」と考えると人生に悲観してしまう原因になりかねません。この意味で、私は「決定論」は「強者の理論」だと考えています。
ここで言う「強者」は人生に成功している人のことです。成功にも定義がありますが、その人が「成功している」と思っていれば「強者」に分類されるものとします。
誰だって責任は誰かのせいにしたいものです。それを「すでにあなたが生まれた時から決まっていた未来だった」と言い放つのは残酷にも程があります。
ということで、誰しもがこの考えとは違った世界で生きたいとどこかで考えているのは間違いないため、この話は話半分に呼んでいただければ幸いです。もし嫌悪感を抱かれた方は即座にブラウザバックしてください。
私が決定論に至った訳
何故決定論に至ったかを説明するには、主に3つの要素を説明する必要があります。
生物学的視点:人生は遺伝子により大部分が決している
マクロ的視点:地球・宇宙規模で考えると、万物は時間の流れというパラメータがない物理学的な理論で説明できる
ミクロ的視点:次元を落として考えると、時間的要素を人間が解釈できないことが分かる
主観的視点 :人生には「デジャヴ」が多い
1. 生物学的視点
非常に残念な事ですが、人生はその人の持つ遺伝子によって大半が決まると言っても過言ではありません。
一応教育や周囲の環境といった点でまだ議論の余地がありますが、教育は子供の遺伝子が提供された大元の親に依存しているし、環境も「類は友を呼ぶ」と言うように遺伝子に裏付けられた性質を持った個体が集まりがちになります。
この点で、結果的には「環境」「教育」もその人の遺伝子に大きく関連することになると考えるため、やはり遺伝子によってその人の性格が決まると言っても良いと考えています。
努力家な性格では学業・就職・結婚の成功に繋がり、怠惰な性格では失敗に繋がることを考えると、その遺伝子が生まれた時点である程度未来が決定すると言えます。
さらに親までさかのぼると、子供の遺伝子は(乱数要素はありますが)親の遺伝子によって決定されています。その親も親の遺伝子によって人生の方向性が決まっていたと考えると、その親の親の遺伝子によって既に親の人生が決まっていた……とどんどん遡ることができます。
よって、「遺伝子によって人生が決まる」という風に考えると、「未来→過去」にどんどん辿ることができるため、最終的には決定論に帰結することになります。
これが私が決定論によってヒト社会が構築されていると考える理由です。
2. マクロ的視点
ヒト社会よりも大きな枠組み(地球・宇宙)という規模で考えてみると、今度は乱数要素が消えて完全に物理学の世界に入ります。
そもそも宇宙の理論が完全に解明されているわけではないことは一旦置いておくと、宇宙論(惑星論)は現在の物理学によってほとんどが説明できます。
ビックバンや惑星軌道、彗星の衝突など大きい自然現象もそうですし、地球上の地盤沈下や火山噴火、マントル運動なども物理の枠組みの中です。そして、その物理学には時間(T)というパラメータはありますが、時間の流れと言う概念は存在しません。
時間が存在するだけで、前も後もないということですね。逆説的に、物理学がすべて解明できれば未来予知が可能になるというわけです(ラプラスの悪魔)。
マクロ的な現象が時間の流れに基づいていないわけですから、もっとミクロな世界でも同様だと考えるのが自然だと思います。つまり、我々が感じている時間の流れは虚構である可能性が高いという事です。
3. ミクロ的視点
今度は逆に、人間が生きている4次元世界で考えてみましょう。0次元が点、1次元は線、2次元が面、3次元が立体とよく言われますが、人間が生きているのはその一個上の次元なのでその4次元を仮に「時間」と呼称することにしましょう。
イメージとしては3次元を無限に拡張した世界が我々が生きている現実を写真で取った瞬間で、その3次元空間の様子が無限個用意されている感じです。このイメージ自体がもはや時間を超越している感じがしますが、あくまでもイメージで数学的な議論からかけ離れるため一旦置いておきます。
さて、次元を落として0次元(点)から見た1次元(線)を考えてみましょう。1次元に拡張された際に発生する概念は「向き」です。要は方向ですね。
点だけの世界では空間的なパラメータが一切ないので、増えるのは一次元の空間的パラメータと考えると分かりやすいです。
さて、我々が点になったと想像しましょう。点が無限個集まったのが線で、プラス方向に1移動すれば座標が+1となります。逆に、マイナス方向に1移動すれば座標が-1の位置に移動します。
さて、ほとんどの人は自然にプラスマイナスに移動できてしまったと思いますが、実はこれ自体が4次元空間に落とした時の時間移動に対応しています。
つまり、プラスが未来、マイナスが過去と考えると、我々は0次元から見た1次元上の空間を方向を考えずに行き来できることになります。
これは3次元の肉体を持った人類が4次元の時間軸を行き来できる可能性を示唆しています。
我々は過去→未来にしか進めないと思っていますが、次元を拡張した理論で行けば未来→過去にも行けるはずなのです。
4. 主観的視点
論理的根拠に欠けますが、正直このように思い始めたのは私自身の経験が理由です。
みなさん、「あっ、この瞬間夢でみたことあるな」って思ったことありませんか?
いわゆるデジャヴってやつですが、私は既に人生で10回以上このデジャヴを感じたことがあります。
よく科学的な説明では「過去の類似経験を思い出しているだけ」とあります。しかしながら、私自身のデジャヴは勿論前後の文脈を思い出すことはできませんが、「この出来事の後に何か悪いことが起きた気がする」など、単純な経験に留まらない未来予知的な何かに遭遇したことがあります。
そして、そのデジャヴは何処で見たのかというと、私の場合は「夢の中」でした。
そもそも夢と言うのも不思議なもので、夢は夢の中に居る限りそれが夢であると気づかないものです。
やや飛躍しますが、デジャヴが夢から生まれたこと、そして夢自身が現実のように錯覚することから、私は【夢は時間的な制約に縛られないあったかもしれない未来の記憶】なのではないかと考えるようになりました。
これをふまえると、人間よりもさらに高次元の世界(時間の一個上)に我々の知性の考慮外にある存在が良そうな気がします。話が脱線してしまいましたが、要は夢が未来の記憶なら、それを夢で見ている事自体が時間を超越していることになります。
決定論的な世界はどのようなものか
さて、ここまでは世界が決定論に基づいていると考えた理由について説明してきましたが、では決定論的な世界はどうなっているのか、興味がありませんか?
私が考えるに、今我々が生きている瞬間が4次元(時間)の切り取りだとすると、そもそもヒトや宇宙の歴史には始まりと終わりが決まっているのではないでしょうか。
宇宙・ヒト全体での決定論
まずは分かりやすい宇宙の例から説明します。
宇宙は誕生と同時に消滅が決定し、その宇宙に包含される全てのものは宇宙の消滅と共にすべて平等に無に帰します。まずは始まりと終わりが決まるというのはこういうことです。
その中で、惑星の発生や消滅が起こります。発生しようが消滅しようが最終的なゴールは宇宙の消滅なので全体から見ると意味はありませんが、逆説的に結論が決まっている為、どの瞬間に発生しても消滅しても問題ないことになります。
これはさらにミクロにしていくことができて、惑星の発生・消滅が始まりと終わりだと考えると、その惑星内の活動は惑星の発生・消滅になんら寄与しない要素の為、どの瞬間に発生しても消滅しても問題ないことになります。
人間や動植物が生きていても地球ごと消滅したら共倒れだ、と考えると理解しやすいでしょうか。
そして、人間の生活は惑星の発生・消滅になんら寄与しないため、どの瞬間に発生しても消滅しても問題ありません。
つまり、人類が絶滅する未来は既に現時点で決定しています。それが「時間的」にいつになるかは分かりませんが、とにかく惑星が存在している限りどの瞬間にも訪れる可能性があります。
ちなみに、「人間の生活や惑星の発生・消滅になんら寄与しない」という点に反論する方もいらっしゃるかもしれません。確かに人間がマントルをぶっ飛ばせば「時間的に」早く地球が消滅するかもしれませんが、そもそも惑星の消滅は宇宙規模で考えればどの瞬間に発生しても良いので、その瞬間がいつになるかという議論に意味はありません。
マクロ・ミクロな人間史
では、始まりと終わりが決まっていれば過程がどうでも良いのかと言うと、そうでは無いと思います。具体的には、始まりと終わりに大きく寄与する要素はあらかじめ発生が決定されると思っています。
例えば「イエスキリストの誕生」ですね。この人物が現在の人類の世界観に大きな影響を与えたことは間違いありません。
また、未来的な要素で言えば、人間が絶滅する要因としてはAIによる殲滅、戦争による共倒れ等があるかと思います。これも恐らく終わりに大きく寄与する要素で、前者ならば「AIを創り出す」という今こそがターニングポイントを既に迎えているということになります。
もしこれが正しいと仮定すると、コンピュータの発明が確定し、さらには学問の進展が確定します。このように、細かい点でも大きな点でも結末から連鎖的にターニングポイントが決定するため、この理論は「決定論」と呼ばれるわけです。
このように、マクロな人間史でも始まり・終わり・ターニングポイントが決まっていると考えられます。
では、ミクロな人間史(その人の人生)ではどうでしょうか。
この場合も同じく、誕生という始まりがあって、死という終わりがあります、死という終わりが定義されているため、不死というのは決定論において絶対にありえない概念になります。
そして、その人におけるターニングポイントが幾つか発生します。
例えば一概に死と言っても死に方は様々あるので、例えば結末が「孫に囲まれて病院で亡くなる」だったらターニングポイントには結婚、出産があります。さらに言えば結婚に辿る筋も決まるため、結婚の為に必要なパラメータはその前の就職や大学、高校などで決定されるはずです。
最後に、平行世界論についても触れようと思います。
決定論は時間の流れに依存しないので、無限に今の世界があることは許容できるます。というか、意味わからん夢は平行世界の記憶と考えても良いかもしれません。
われわれが見ている世界というのは4次元的な空間?の一側面でしかなく、終わりまでに至る過程の可能性は無限大です。例えばその日の朝に食べた料理によって人生が大きく変わらないように、その道中の選択肢は無限に溢れています。
つまり、マクロ的な視点で見れば、自分が生まれる前の歴史が大きく変わっていて、魔法という概念が世界に現れても、逆に世紀末な世界にすでになっていても何らおかしくありません。
地球的には道中がどうなろうが問題ないのですから。
決定論をふまえて、我々はどう生きるか
ここまでは所詮妄想の話で、実生活に対しては何も役に立つことはありません。
しかしながら、このような考えがあること自体には大きな意味があります。
一つは、「決定論」がただしいならば、人間は時間を超越することが出来ることになります。つまり、不老不死にはなれませんが、タイムリーパーになることはできます。
つまり、いつの日にか過去や未来に囚われない世界がやってくるかもしれません。これは時間に縛られている現代人にとっては大きな意味を持つでしょう。
また、単純に「なるようになる」という人生観を持つことにもつながります。
どうせ結論が変わらないのであれば、自分の意志に基づいて自由に生きよう。そんな考え方をすれば、殻に籠っていた自分から脱出できるかもしれません。
〆の挨拶
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