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岐阜に至る ①新宿の病院で。

昭和30年の武蔵国分寺の一坪はいかほどだったのか?
祖父は思い立って100坪ほどの土地を購入し、
こざっぱりとした平屋を建てた。

駅からはゆうに20分はかかり
まだ都内に勤めていた祖父は
片道1時間の通勤で
この終の住処を得た。

当時家のまわりは見渡す限り草地。
原野が広がり、遠くに駅の光、
西には北府中の東芝があるのみだった。
まさに田舎の一軒家。
安いとはいえ、家人にとっては
いささか迷惑な引越しだったに違いない。

当時、祖父は父の実母とは違うひとと暮らし、やがてその十年後には幼かったわたしのために二階屋を建て増しした。

わたしたち家族がやってきた昭和40年頃になると、さすがに原野とは言い難く、
そこそこ家も並び、
向こう三軒両隣があり
庭付きの思い思いに意匠を凝らしたサッパリとした家々が建ち並んでいた。
息子夫婦もやってきて孫たちの声で賑やかになり、静かな原野の一軒家は
普通の町内の一家屋となった。

わたしは多感な時期をこの国分寺に育ち、
たった20年の短い期間ではあるが
凝縮した経験と、学びと
原野に近い武蔵野の雑草地をベースに
人格を形成していった。

人生の岐路に立つ時、
考えをまとめるために訪れる土地がある。
わたしにとって国分寺は間違いなく
原点に立ち戻れるそんな土地のひとつである。

別世帯でありながら頻繁に行き来する祖父の所帯と父母の家庭。
子供ながらに
大人の複雑な事情を肌で感じ、家族の節目を傍観したあの時期は今のわたしの一部になっている。

祖父はその家でわたしと11年暮らし、時々に煽り、怒り、そして彼なりの愛情を注いでくれた。
今やたらと思い出すのは
その祖父のことだ。

明治41年生まれ、岐阜生まれ。
生みの母が早世し、継母に気兼ねしてそこそこに家を出て、働きながら夜間大学を出て国鉄に職を得た。戦時下中国に赴任、戦後引き上げ官庁に勤務。
ひとくちに言うとそんな経歴だった彼を
時々懐かしく思う。

わたしが14の歳の時に肝臓がんを患い、
発見時はすでに末期を迎え、
走り過ぎるように去って逝った祖父。

新宿の古い病院の細長い部屋で、
最期まで冗談話をする祖父は、
どこか自分とよく似ていて、
不器用で肝心なことは口にせず、
溢れ出る愛情の行き場をいつもどこかに探し求めているように見えた。
普段は寡黙であるのに、相手を得ると途端に饒舌になり、過去の話や多くの逸話を実に面白く話す。人が何に興味を引き、話の勘所をどこに置くと聞いてもらえるかをよく知った頭のいい人だった。わたしはこの祖父に半分呆れながらも尊敬し、何より人としての祖父が大好きだった。

若い頃から同人誌に小説を書き、
リタイア後も原稿用紙にむかっていた。
人を喜ばすことが好きで、
そのくせどこか言葉足らずで
大切な人を繋ぎ止めておけなかった彼。

末期がんの病室はひどく不思議な形をしており、
嘘か誠か、元々一室だったものを縦にふたつに割ったまさに「鰻の寝床」のような体裁だった。
人1人がやっとすり抜ける手狭な病室で
力なく横たわる痩せ細った祖父。
作家志望で人並み以上に繊細で、想像力に富んだ彼が、夜半の新宿の裏通り沿いの病院で、
ふと目覚める時、対になった片方の病室の異変を知らせる物音をどんな気持ちで聞いていたのだろう。見舞いに行くと、先週まで名札のかかった隣人はなく、わたしもあえてその話には触れることはない。

クリスチャンだった祖父は
元気な頃は熱心に教会に行くわけでもなく、表面上はエセ信者を演じていた。
しかし時折見せる言葉には
彼の明晰な頭脳と苦しいまでに無骨なクリスチャンとしての真面目さの片鱗があった。
末期癌のモルヒネの副作用に起こる幻覚にも似た夢の数々。
語ったコントのような天国と地獄の夢は今でも鮮明に覚えている。

わたしは
祖父の亡くなる歳に少しずつ近づき、
この世でやり残した事事が気になっている。

決して成功者とはいえず、
片親ひとりで子どもを大きくしただけで、
なんとなく人生の積み残しが多めのところも、
幾度となく絶対絶命な経験をして過酷だったろう人生を歩んできたのに、
どこか笑えてしまうキャラクターまで
わたしたちはとてもよく似ているのだ。

そんな祖父がまるで横に立って、

おい、おまえ
俺の故郷の岐阜を一度も見ずに
こっちに来るのかい?

と言っている。

そう岐阜は祖父の生まれた土地。多感な時代を過ごした土地。

ようやく重い腰をあげ、
祖父の生きてきた変遷を辿る旅に出ようと思う。
そして彼の辿ってきた人生と
遺した小説の片鱗に触れたいと思うのだ。

わたしは病院の壁一枚隔てた隣の病室で
今祖父と並んで寝ている。
半分ずつ解放された都会の空は
どんな色をしていたのだろう。

祖父が死んで遺品を整理していると、
まだ外紙に巻いたままの原稿用紙の束が出てきた。
わたしはそれをそのまま貰い、幾つかの雑文を書いた。
時は流れ、今はパソコンだけでなく、
スマホで文を書く時代となった。

初夏の机に積み上がった
原稿用紙の茶紙の塊を今も記憶に留めている。
彼が積み残したものを拾いに行こうと思う。

希望もなく閉塞感の漂うこの時代に、
わたしはひとり岐阜に至る旅に出る。

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