近現代ウクライナの悲惨極まりない歴史まとめ

 ウクライナの近現代史が世界で最も悲惨なことは良く知られていたが、2022年の戦争でより一層、この点は際立つことになった。本当にこの国は踏んだり蹴ったりである。1つはロシアとヨーロッパの境界地帯という厄介な地理的条件が原因なのだろう。ウクライナという国名そのものが「境界」という意味だ。近代以前においてもポーランド・トルコ・ロシアの間で行き来していた。それより前は遊牧民の根城だ。ウクライナはユーラシアの暴力を一手に受ける場所なのかもしれない。

 今回はウクライナの悲惨な近現代史をまとめてみよう。開始点は19世紀世界が終わったとされる1914年だ。

1914年:第一次世界大戦

 1914年、サラエボの銃声とともにヨーロッパでは前例のない大戦争が始まった。これにより、19世紀の世界は崩壊することになった。当時のウクライナはロシア帝国の領土であり、国民意識は希薄だった。ウクライナ人はロシア帝国の臣民として世界大戦を戦うことになった。

 ロシア帝国は欧州諸国に比べてかなり後進的で、国家総力戦を戦える状態には無かった。ロシア軍の兵士の士気はドイツはもちろん、多民族帝国のオーストリアよりも低く、戦いを拒否するようになった。1917年のロシア革命でロシア軍は戦争どころではなくなり、ドイツとの間に講和条約を結び、敗北した。ウクライナは中央同盟国の占領地となった。

 第一次世界大戦ではロシア帝国の人口の2%ほどが死亡したと推計されている。

1918年:ロシア内戦

 ロシアの歴史において、第一次世界大戦よりも遥かに悲惨だったのはその後の内戦だ。10月革命でボリシェビキが政権を握ると、各地では多種多様な勢力によって大反乱が勃発し、全国規模の内戦が勃発した。ウクライナはドイツ軍の占領下にあったため、傀儡政権が作られた。このまま独立も可能のように思えたが、ウクライナ人の国民意識は低く、なかなか独立国を作ることは難しかった。

 第一次世界大戦の結果、ドイツ・オーストリア・ロシア・オスマンの4帝国が崩壊し、ベルリンより東のユーラシア大陸は無政府状態となっていた。ウクライナ人の居住地域のうち、東部はポーランドと結んでロシアと戦い、西部はポーランドと戦うという複雑な状態にあった。しかもボリシェビキとポーランドも交戦状態にあり、ポーランド軍は一時期はミンスクの辺りにまで進軍していた。キエフは10数回も支配者が変わり、激しい内戦にさらされた。南部ではマフノのアナキスト軍が反乱を起こし、独自国家を作り上げていた。考えただけでもめまいがする混乱状態だ。最終的に、ウクライナ人が住む地域のうち、東部はボリシェビキに制圧され、西部はポーランドに制圧された。両国によってウクライナは分割され、独立は失敗してしまったことになる。

 ロシア革命とその後の内戦により、900万人が死亡したと推計されている。人口のだいたい6%だ。ウクライナの被害は分からないが、飢饉なども発生しており、被害が軽い地域とは思えない。

1933年:ホロドモール

 ウクライナ人の大半は東部のソビエト・ウクライナに住んでいた。この地域はヨーロッパのパンかごと言われ、世界有数の大穀倉地帯である。そのウクライナに悲劇が襲った。

 ソ連が建国されてまもなくレーニンは死に、スターリンが絶対的な独裁者となる。スターリンは党内の右派を排除すると、第一次五カ年計画を実行する。お陰でソ連は世界恐慌の影響を受けずに急激なな工業化を達成していた。

 しかし、物事には裏があるものだ。ソ連の工業化は飢餓輸出に支えられていた。スターリンは国民の大半を占める農村を生産性が低いとみなし、集団農場という形で国家の支配が及ぶようにしたかった。スターリンは工業化のために農民を犠牲にすることにした。1933年、ウクライナには大規模な飢饉が発生した。ソ連はウクライナの飢餓を否定し、農民が飢えている眼の前で穀物を貨車に詰み、外国に輸出していった。その気になれば簡単に農民を救うことはできたはずだったが、スターリンはウクライナ農民をサボタージュの温床と決めつけており、餓死するにまかせた。結果としてウクライナの人口の10%に当たる330万人が餓死したと推計されている。近代とは思えない悲惨な出来事である。

1937年:大粛清

 ソ連の残忍さが最高潮になるのが1937年から本格化する大粛清だ。この殺戮は正気とは到底思えない。なにしろ同志であるはずの共産主義者がお互いに殺し合ったのだ。共産主義は虐殺に関しても平等だったということか。熱心に共産党に尽くしたはずの党幹部や軍人が次々と逮捕され、拷問され、インチキ裁判の結果として銃殺されていった。

 大粛清の異様さは、加害者が被害者でもあったことだ。初期の粛清担当者だったGPU長官のヤゴダや大粛清の本格化についていけず、粛清された。次に担当となったエジョフの時代に狂ったように粛清が行われるようになり、ありとあらゆるソ連のエリートが粛清された。そのエジョフもまた粛清され、最後はベリヤが秘密警察を一手に支配することになった。幹部同士の密告や吊し上げが行われ、同士を糾弾していた本人が次の日には粛清されていった。

 大粛清はウクライナでも大々的に行われた。ホロドモールの「犯人」だった第一書記のポスティシェフは粛清され、後釜に座ったフルシチョフは次々と幹部を処刑していった。推計で人口の0.5%ほどが処刑されたとされる。特にウクライナで標的にされたのはポーランド系の住民で、なんと人口の6人に1人が処刑されている計算だ。もはやジェノサイドである。

 プーチン政権はソ連を肯定し、特にスターリンを英雄として崇めているが、流石に大粛清に関しては否定している。このような蛮行を正当化することはできないし、外部の人間から見てなんの意味があるのかすら理解不能なのだ。山岳ベース事件を彷彿とさせるものがある。

1939年:ポーランド侵攻

 大粛清が終わったのは1939年に第二次世界大戦が勃発したからだ。東西からドイツとソ連の軍隊がポーランドに侵攻し、この国は東西に分割して占領されることになった。ポーランド東部に当たるガリツィアはウクライナ系の住民が多く住んでおり、この土地はソビエト・ウクライナに併合されることになった。皮肉なことにスターリンの手によって、ウクライナ人の住む土地が始めて統一されたことになる。

 新たなに併合されたポーランド東部では真っ先に粛清が開始された。共産党の脅威となりうる人物は片っ端から処刑だ。ガリツィアでは歴史的経緯により、ユダヤ人はソ連当局の味方になることが多く、現地の住民から恨みを勝ってしまった。これが後の惨劇に繋がることになる。

 なお、ポーランド東部で活動を活発化させた武装組織がウクライナ蜂起軍(UPA)である。この組織はウクライナの独立を目指す民族主義組織であり、ポーランドともソ連とも対立関係にあった。ウクライナは独自の国家として振る舞ったことが皆無なので、UPAは民族の英雄として扱うナショナリストが多い。これもまた、しばしば問題として取り上げられる。

1941年:独ソ戦

 ポーランド侵攻を皮切りに周辺国を侵略したナチスドイツはついに欧州の統一帝国にまで膨張した。ついに残る敵は東方のソ連のみとなった。1941年6月22日、ナチスドイツは全兵力をもってソ連に全面侵攻する。独ソ戦の開始である。
 
 独ソ戦は人類史上最も大規模かつ激しい戦いであり、双方によって大量虐殺が繰り広げられれた。ヒトラー対スターリン、この殺戮の真ん中で巻き込まれてしまったのがウクライナだ。

 独ソ戦初期のソ連は戦争準備が全くできていなかったので、軍隊は総崩れとなった。ソ連の大軍は大粛清で将校が不足していたこともあって、ドイツ軍に太刀打ちできず、大量に降伏していった。ウクライナも9月にキエフが陥落し、ドイツの占領下に置かれる。悲劇が始まるのはこれからだ。

 ナチスは東部総合計画のもと、ソ連を植民地化する予定だった。スラブ人は劣等民族なので、殺すか奴隷化するのが適切な扱いとされた。ウクライナで徴兵された兵士はそのまま絶滅対象となり、野原の捕虜収容所で食料を与えられないまま放置された。ナチスドイツの収容所で殺害されたソ連軍捕虜は300万にも上る。その多くはウクライナから徴収された兵士だった。捕虜ほどではないが、キエフやハリコフといった都市では大規模な飢餓が発生し、多くの市民が餓死していった。

 同時に始まったのがホロコーストだ。ソ連侵攻と同時に現地のユダヤ人は抹殺するものと指示された。ナチスの移動虐殺部隊「アインザッツグルッペン」は手の届くあらゆるユダヤ人を虐殺し始めた。ホロコーストが特に激しかったのはソ連に占領されてまもなく、独ソ開戦と同時に占領下に置かれた地域だ。具体的にはバルト三国から西ウクライナまでの地域を指す。この地域は世界で最も高密度にユダヤ人が住んでいる地域でもあった。占領下に置かれていたため、逃げる間もなく、西ウクライナの100万人ほどのユダヤ人はナチスの手に落ち、ほぼ全員が銃殺された。

 開戦前からソ連の領土だった地域のユダヤ人は逃げることができた者が多かったが、それでも100万人がドイツの手に落ち、虐殺された。キエフでは占領から程なくしてユダヤ人の一斉検挙が始まり、郊外のバビ・ヤール渓谷でユダヤ人4万人が2日間のうちに銃殺された。歴史上前例のない大量銃殺作戦が実行された。渓谷は死体でいっぱいになり、阿鼻叫喚の地獄絵図が生まれていた。もちろん大量銃殺は一般のウクライナ人にも及び、パルチザンに協力したと称して多くのウクライナの村が襲撃され、住民が皆殺しにされていった。

 ウクライナ人の中にはソ連による支配に反発したものもおり、彼らはしばしばドイツの味方になった。強制収容所でユダヤ人を虐殺していたのはウクライナ人の看守の手によるものが多かった。

1945年:民族浄化 

 1944年になると戦況は逆転し、ソ連による大反抗が始まった。二年以上に渡ってドイツ占領下にあったウクライナは激しい戦闘の末に奪還され、再びソ連による支配が始まった。

 ソ連の支配が回復した後も残虐行為は続いた。クリミア半島に住んでいたクリミアタタール人という少数民族は、ドイツに協力したという嫌疑を掛けられ、民族まるごとシベリアに追放された。彼らの多くは現地で餓死することになった。他にもウクライナに住んでいたドイツ系住民など、多くはシベリア送りとなった。

 第二次世界大戦の終戦前後、1944年から1947年にかけては東欧で大規模な民族浄化が行われていた。民族混在を廃止するため、ソ連は少数民族を強制移住させることにした。ポーランド領内に住んでいたウクライナ人はソ連に追放され、ウクライナ領内に住んでいたポーランド人はポーランドに追放されることになった。

 この時期になると、ウクライナのナショナリストはソ連支配にもう一度立ち上がることにした。UPAが最初に行ったことはポーランド人の虐殺だった。ドイツでもソ連でもない勢力によってポーランド人5万人が虐殺されたのである。この地域の複雑な民族問題を表している。ウクライナのナショナリストの中にはドイツに味方をして従軍したものが数多く存在したが、彼らは終戦と同時に処刑された。それどころか、ドイツ軍に強制労働させられていた普通のウクライナ人捕虜すらも裏切りの嫌疑を掛けられ、シベリアの強制収容所に収容された。

 独ソ戦で死亡したウクライナ人は700万人にも及び、人口の6人に1人が命を落とした計算になる。戦闘で死亡したものも多いが、大半は虐殺で命を落とした民間人と戦争捕虜だった。

1947年:大飢饉

 戦後間もない1947年、再びこの地域を大飢饉が襲うことになる。独ソ戦で流通が混乱していたことが原因だろう。スターリンは相変わらずウクライナ農民には冷淡で、救済すること無く餓死するに任せた。この飢饉で100万人から150万人が餓死したと考えられている。

 それ以上に当局が関心を持っていたのはUPAの掃討作戦だ。ソ連支配に対してUPAは最後の抵抗を行っていたが、ウクライナ第一書記のフルシチョフは断固とした抑圧で挑み、10万人ほどを殺害している。ウクライナで反体制的だと疑われた人はシベリアの収容所に送られ、非人道的な環境で凍死することになった。

1986年:チェルノブイリ原発事故

 戦後のウクライナは悪い時代ではなかった。ソ連による締め付けは厳しかったが、1953年にスターリンが死去すると、弾圧は露骨に緩む。追放されていた民族は故郷に戻ることが許され、ウクライナは復興の道を歩んでいった。フルシチョフは戦争で多大な犠牲を払ったウクライナへの配慮としてクリミア半島をプレゼントした。ウクライナは東欧諸国とロシアの中間に位置するため、貿易などで有利であり、工業化が一気に進むことになった。

 しかし、ソ連が衰退すると風向きは変わってくる。1986年、ウクライナ北部に位置するチェルノブイリ原発で大事故が発生する。原子炉の稼働実験中に爆発が発生し、大量の放射性物質が撒き散らされた。ソ連当局は隠蔽したが、あまりの放射能の強さにスウェーデンの原発の非常装置が作動してしまい、西側の察知することとなった。

 ソ連は現地住民を強制連行し、原発をコンクリートの石棺で覆わせた。この時の作業員の多くはガンで死亡したとも言われている。事故によってどれほどの犠牲者が出たのかは不明確だが、数万人にも上ると言われている。現在に至るまでウクライナはチェルノブイリ原発事故の処理に追われており、ソ連の負の遺産と化した。

1991年:ソ連崩壊

 ソ連崩壊でウクライナは始めて自分たちの独立国を手にすることになった。ソ連が崩壊した原因の1つはウクライナの選挙で独立が決まったからでもある。民族の悲願とも言えるが、実際はそうでもなかった。ウクライナ人の民族意識は薄く、自分たちが何をしているのか良く分からなかったのだ。

 ソ連崩壊後、旧ソ連諸国は深刻な経済不振に陥った。GDPは半分にまで減少したと試算されている。自殺・殺人・アル中は一気に増加し、市民の生活は悲惨極まりないものになった。特にこの経済難が直撃したのはウクライナである。カザフスタンなど天然資源を持っていた国はいち早く混乱から脱したし、ロシアもプーチン時代になってから天然ガスの輸出でなんとか経済を支えられるようになった。ウクライナは比較劣位にあった工業で身を立てていたため、深刻な不況に陥った。ウクライナの製品は西側での商品価値がなく、誰も買ってくれないのだ。ウクライナの経済がいかにソ連ブロックに依存していたかを示す証拠である。

 ウクライナの経済は低迷を続け、未だにソ連崩壊以前の水準を回復していない。旧ソ連諸国15カ国のうち、ここまで酷いのはウクライナだけだ。ウクライナの一人あたりGDPは欧州最下位であり、隣接するロシアと比べても半分である。

2014年:マイダン革命

 深刻な経済難を反映してか、政治も不安定なままだった。ウクライナの政治腐敗は非常に深刻だ。一応民主主義ということになっているが、実情はロシアと変わらない。第二代大統領のクチマは比較的評価の高い人物だが、ジャーナリストの殺害を指示したことが発覚してスキャンダルになった。

 そのクチマが退任し、後任に指名されたのが親露派のヤヌコビッチだ。ヤヌコビッチは選挙に勝利するのだが、すぐに不正選挙だとして暴動が起こり、大統領の当選は無効になってしまった。これが2005年のオレンジ革命である。オレンジ革命の結果、親欧米のユシチェンコやティモシェンコが政権に就き、欧米は祝福した。ところがオレンジ革命が成就してみると、深刻な内政問題で政治不信が高まり、ユシチェンコは民族問題を煽るようになる。この辺りでウクライナの東西問題がテーマに挙げられるようになった。

 オレンジ革命が失敗すると、選挙で勝利したのはなんとヤヌコビッチだった。再び親露路線への揺り戻しが来たことになる。ところがヤヌコビッチは腐敗などでとことん人気がなく、2014年に暴動が起き、政権が崩壊する。世にいうマイダン革命である。

 マイダン革命と同時にウクライナでは暴動が起き、ロシアは介入のタイミングを伺っていた。クリミアに電撃侵攻し、現地の政治家を味方につけ、クリミア半島を併合してしまう。同時に東部ではマイダン革命に反発が強かったドンバス地域で反乱が起き、ドンバス戦争と呼ばれる内戦が始まった。同時期に起きたマレーシア航空機撃墜事件も話題になった。

 マイダン革命の結果、ロシアとの関係が悪化し、ウクライナの経済はますます衰退することになった。ウクライナがバルカン半島よりも貧しくなったのはこの辺りである。純粋に経済的なことを考えればロシアとの関係を改善したほうが良く、ビジネスエリートはロシア寄りだ。西洋志向のポピュリズムとロシア志向の保守勢力という対比がウクライナ社会の特徴である。

2022年:ウクライナ侵攻

 2019年、長引く政治不信の結果、お笑い芸人のゼレンスキーが大統領に当選する。冗談のような展開だが、それほどまでに有権者は既成政治家を信用していなかったことになる。2020年、ロシアにとっての不確定要素だったトランプ大統領が落選し、条件が整った。プーチンはついに長年の戦略目標を実行する機会を手にした。2021年の秋、ロシアの内陸部からウクライナ方面へと大量の軍事物資が送られているのが報道され、世界は騒然となる。

 2022年2月24日、ロシア軍はロシア・クリミア・ベラルーシの三方向からウクライナに侵攻する。これを持ってポスト冷戦時代は終了したと言われることが多い。第二次世界大戦後の欧州で始めての国家間戦争だ。当初ウクライナはすぐに降伏すると思われていたが、予想外の奮闘によりロシア軍を押し返すことに成功した。ウクライナ人が侵略に反発して頑張ったこと、ウクライナ軍が西側の援助で軍事増強に励んでいたこと、ロシア軍の兵力が足りなかったこと、などが原因として考えられている。

 それから2年になるが、未だに戦争は続いている。数百万の国民が難民として流出し、経済は瀕死の状態だ。戦死者は10万人近いとも言われている。詳しい数字は国家機密扱いで分からない。そういう国なのだ。

なせウクライナはツイてないのか

 それにしてもウクライナは踏んだり蹴ったりの国だ。ロシアとヨーロッパの間にあるという条件が理由としか考えられない。この手の緩衝国は悲惨な運命を辿る時がある。北朝鮮・カンボジア・シリアなどだ。

 しかし、地政学的条件だけが理由とも考えられない。ウクライナ国家の脆弱さも原因の1つだろう。ウクライナの経済水準はモルドバと並んで欧州最悪で、一人あたりGDPはフィリピンと変わらない。少子高齢化のペースも最悪だ。腐敗の水準も極めて高い。しかもこれらはロシアとの開戦前である。

 地政学的な境界地帯に脆弱な国家がある。これが悲劇の原因だろう。ウクライナ人の国民意識の乏しさも原因と思われる。このような地政学的位置にある国家は強くならねばならない。イスラエルやスイスがそうだ。フィンランドは1939年にソ連を打ち破っている。アフガニスタンもある意味で強力な防衛力を持っている。ポーランドはより強力な勢力に従うことで安全を確保した。北朝鮮とカンボジアは強くなろうとして失敗したケースだ。タイやヨルダンのように何も起きなかった幸運なケースもある。

 ウクライナももしかしたらこのどれかのケースを辿るかもしれない。うまく行けばロシアを打ち破った偉大な国家として繁栄の道を歩むかもしれないし、うまく行かなければ現状のままか、過激主義の道を歩むだろう。


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