見出し画像

20代で既に老境に入っているという話

 あなたは老人というと何歳からを思い浮かべるだろう。社会的には65歳とされているが、80歳からが老人という人もいるし、50歳で既に老人という人もいるだろう。

 ただし、こうした線引きにはあまり意味がないと思っている。人体を蝕む老化現象は既に20代から始まっているからだ。身体が成長する20歳までは身体機能は上昇するが、それ以降は下降の一途を辿る。DNAのダメージは蓄積していき、肌はボロボロになっていき、思考回路もどんどん鈍くなっている。「下がっていく」という意味では20代で既に衰退は始まっているのだ。

 実のところ、こうした衰退は社会的な面でも感じることが多い。人間は20代以降、笑うことが少なくなる。面白いことが減るからだ。人間が頑張るモチベは将来の可能性のためだが、実際には人生の可能性は20代にして既に狭まっており、40歳までにはほぼ確定する。それ以降は下がっていくだけだ。可能性は人生の序盤に閉ざされ、あとは消化試合となっていく。

 私に関しては、最大の絶望の原因は仕事だった。私は昔からサラリーマンにはなりたくなかったのだが、いろいろあって結局新卒でサラリーマンになった。子供の時は自分は何にでもなれると思っていたのに、今の自分の可能性がせいぜい社内で部長になることしか無くなった。この絶望感は深かった。サラリーマンの自己啓発本を読み漁ったが、この閉塞感は解消するどころかどんどん深刻化していくことが分かった。「憧れ」とか「夢」といった概念はもう卒業すべき年頃だ。

 あとは定年退職するだけなんだな、と悟り、就職は人生のゴールだったと考えを改めることにした。会社は自己実現の場所ではない。そんな幻想は捨てろ。もう自分はまったり過ごせばいいのだ。そう思い込んでいた。人生のゴールに到達したら、あとは日常を充実させればいいだろう。高望みはせず、自分のペースでやりたいことをやればいい。そう思っていた。しかし、それは間違っていた。

 最大の誤算は、日常を充実させられなかったことだ。サラリーマンの仕事が吐き気がするほどつまらない。自分の興味も能力も何一つ活かせないことは確実だった。いや、そんなものは最初から無かったのかもしれない。本当に求められていたのは意味不明なブルシットジョブを大量に実行することだったのだ。「こんなことのために今までの人生の経験と学びがあったのか」、そう思うと気分はどん底だった。せめて自分が楽しいと思える仕事を見つけようとしたが、ダメだった。そんなものは転がっていなかったし、「仕事をより好みするな」と上司に怒られた。

 それでも希望を捨てられなかったので、中高年の人に片っ端から仕事のモチベーションを聞いてみた。帰ってきた答えは「家族と家のローンのため」だった。経験を積んでも仕事が楽しくなることは無いんだな、と悟った。仕事は辛いし、終わりなく降り掛かってくる。こんな嫌なもののために人生の殆どを奪われるのか。眼の前が真っ暗になった。心の中の大黒柱が砕け散った瞬間だった。

 普通の社会人なら会社の文句をこぼすか、転職して終わるだろう。しかし、私はそうしようとは思わなかった。 ある意味で、私は自分の会社に誇りを持っていた。これ以上の会社は探してもなかなか見つからないと思っている。だからこそ、他の会社が魅力的には感じられなかった。実際に、サラリーマンはどこも大して変わらない事が多い。転職すれば格落ちの会社に中途入社するだけだろう。サラリーマンの市場価値のピークは新卒だ。後は坂を転げ落ちるように蔑まれていく。他社で働いている友人の話を聞いても魅力的だと思える話は1つもなかった。もうこの地獄からは抜けられないんだな、と諦めた。

 こうなると、仕事に関して何一つ期待はできなくなった。それでも私は社会への期待を捨てられなかった。人生の本番はこれからだ。きっと社会はもっと輝いているものだ。私はそう思って視点を切り替えることにした。人生の意味とは人の輪の中で活躍することだ。きっと社会は出会いの場でもあるはずだろう。

 この考えは甘すぎた。というより、著しい事実誤認があったと思う。社会人の多くは就職すると友達が増えなくなる。楽しさを共有できるような人間関係は人生の初期に確定し、後は減るだけのようなのだ。もう以前のように刺激のある友人と出会えることは無いらしい。同僚と会話する機会は少ないし、せいぜい近所の飲食店の話程度しか内容は無いだろう。エネルギーを使う割に面白くない人間関係に期待はしなくなった。会社には給料以外のことを期待してはいけないことを学んだ。

 そもそも多くの人間は仕事にエネルギーを奪われて柔軟な思考は落ちていく。面白い発想や斬新な発想はだいたい若い人ばかりだ。数年もすると結局近所の定食屋くらいしか話のネタがなくなってくる。その先に何か変化があると思ったが、先細りなだけだった。中年以上の社員は人と遊ぶこともなさそうだ。家と会社の往復で、家族との短い会話を除けば、後は1人だ。退職したら多分孤独だろう。「楽しさ」の減少はどんどん進行していくらしい。仕事を頑張ると20年後に寂しいおっさんになれるようだ。

 仕事は苦痛ばかり。友達は減っていく。可能性は閉ざされていく。この暗黒の社会人生活はどうしたものか。劣等感など抱きようがない。ほとんどの人間がそうだからだ。私は別の可能性に気がついた。「人生は20歳を過ぎたら下り坂」なのではないかと。職場を見回しても40代とか50代の人が何が楽しくて生きているのか全く分からないし、そもそも出向等で姿を消している。活気も生きがいもどんどん消えていき、あとに残るのはため息だけだ。

 街を歩いても楽しそうに見えるのは若い人ばかりだ。顔は笑顔で満ちているし、可能性にあふれている。何よりも前向きなエネルギーが伝わってくる。そう、人間はこの時がピークなのだ。社会人は既に盛りを過ぎていて、坂を下る一方なのだ。自分より年上の人間を見ていても、全く楽しそうでは無い。ここに気がついた時、絶望と閉塞感で涙がこぼれそうになった。そうか、自分はもう老境なんだと。

 それからは老人の人生論の本を読むようになった。まだ忙しくて気が付かないだけで、20代は既に老人なのだ。日々できないことが増えていく中で、数少ない「ささやかな幸せ」を見いだせるかが勝負なようだ。老人にとっての目標はいかに残存機能を活かすかだ。20代も多分そうだろう。有名大学から新卒で有名企業に入るというのは人生のプラチナチケットだ。あとは勝ち取った社会経済上の地位をいかに落とさずに死守するかだろう。過去の栄光、過去の人間関係、過去の楽しかった思い出、それらに抱きついて生きていくのだ。「楽しい」という感情はとうの昔に消えていた。

 人生は希望に満ちていると思ったが、それは嘘だった。社会に出て見たのは果てしない暗黒だった。むしろ、20歳までの人生がいかに光り輝いていたかを気付かされた瞬間だった。みんな、どんどん笑う回数は減っていくし、面白いと感じる出来事も減っていく。老いた男性は会話すらほとんどしなくなるが、現在も既に兆候が見えている。我々は既に暗黒郷に入りかけている。人格の衰退と老朽化はこの瞬間も進んでいる。

 「メメント・モリ」という言葉がある。常に生きている間も死を意識しろとのことだ。私は陰鬱な仕事人生を通してこのことを悟った。人生の滑り台の終着点は「死」である。誰しもが逃れられない。私は幸い両親も祖父母も健在だ。しかし、まもなく祖父母はきっと死に絶え、次は両親だろう。そしてその次は私自身である。死神の姿はまだ遠くにいいるが、私のいる場所からははっきりと見えている。そして、死神もまた私の方を見つめている。

 髪の毛がパラッと落ちた。それは白髪だった。今までは白髪なんか無かったのに、と驚いた。この瞬間も死神は一歩また一歩とこちらに近づいている。まだ幸いにして目も耳も健康だが、いずれ損なわれることになるのだろう。次にやってくる災厄は健康問題だ。人生は毎日がピークだ。病気や障害といった恐怖は歳を追うごとに強くなっていく。中高年の陰鬱な気持ちがようやく分かるようになってきた。それは人生の老境を意識したことによる閉塞感、恐怖、そして若者への羨望なのだ。

 ほんの一部の人間は出世競争へと邁進するが、それは自分の価値が下がっていくことへの抵抗なのだろう。会社で威張っている役職者も外に出ればキモいおっさんだ。彼らが価値を認められるのはオフィスの中だけだ。出世の階段を上ることは下りエスカレーターを登ってその場に留まるような行為のようだった。何もかものベクトルが反転し、下り坂を下り始めたことを受け入れられないのだろう。躍起になる人間も、諦める人間も、全て軒並み不幸に見えた。人生の楽しみはどんどん小さくなっていき、数も減っていく。そして最後はゼロになる。

 私がnoteを始めたのはこうした思考の延長だ。骨の髄まで食い尽くすような重苦しい絶望、その解消法はない。長いようで短い余生にやれることは、自分の記録をなにかに残すことだろう。私は既に死神にロックオンされているし、他の人もそうだ。自分の記事を読んでくれる誰かに、考えたことを届けられれば、もしかしたら自分の魂も安らぐのかもしれない。本当にちっぽけではあるが、自分はまだ生きているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?