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<地政学>最強の多民族国家?オーストリア=ハンガリー二重帝国の栄光と崩壊

 これまた地政学リクエスト記事である。今回はオーストリア=ハンガリー帝国を取り上げたいと思う。

 世界史を学んで多くの人が引っかかるポイントがあるだろう。第一次世帯大戦の地図を見てみると、中欧に「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という見知らぬ巨大国家が存在することに気がつくのではないか。オーストリア?カンガルーの住んでいる国か?と誰しも思うのではないか。現在のオーストリアは中欧の小国だが、もともとは欧州に名だたる大国だった。しかし、近代的な感覚だとこれほど奇妙な大国も無いだろう。オーストリア=ハンガリー帝国はドイツを支配していたはずが、国民の大半が異民族という奇妙な帝国だったからだ。明確な軍事征服で領土を拡大したわけではない点も際立っている。ハプスブルクは結婚によって領土を拡大したとされるが、地政学的にそんなことが可能なのだろうか?

 オーストリア=ハンガリー帝国の歴史と地理は欧州史の中でも大変興味深く、真面目に語ろうとすると無制限に長くなってしまう。一記事という限られた範囲ではあるが、なるべく多くを語りつくそうと思う。

オーストリアの地勢

 オーストリアというと現在は中欧の小国というイメージが強いだろう。しかし、その中では首都のウィーンは異様なまでに存在感が強い。ヨーロッパのロンドンやパリと並ぶのではないかという水準である。その理由はこの大都市が中東欧の大国だったオーストリア帝国の首都だったことによるものだ。

 カール大帝が領土としたのはだいたいウィーンの辺りまでだ。冷戦時代の鉄のカーテンもウィーンのすぐ東を通っていた。現在のオーストリア共和国はギリギリ西欧と言えるだろう。一方ウィーンはドナウ川を通してルーマニアにまでにつながっている。欧州の交通の要所だ。ウィーンは西欧の果てであると同時に東欧の入口であり、西欧と東欧の境界地帯の都市なのだ。ここから東欧と西欧にまたがる国、オーストリア帝国は生まれた。

 現代的な目線で見るとオーストリア帝国の地理は掴み所がない。民族構成はバラバラだ。西部にはドイツ人が住んでいるが、他はハンガリー人やチェコ人、その他のスラブ系の民族などが混在している。当初はドイツの代表的な勢力だったのに、統一ドイツからは排除された点も奇妙だ。

 しかし、そこにこそオーストリア帝国の存在意義があった。東欧の民族はポーランドを除いて規模が小さく、自立が困難だった。以前の記事でも繰り返し述べているが、小国が生き残るにはパトロンが必要だ。オーストリア帝国の存在は東欧の諸民族の望むところであったのである。彼らは大国、特にオスマン帝国から身を守るよすがとしてハプスブルク家を受け入れ、支配に甘んじていた。オスマン帝国が衰退するとこの帝国の存在意義は失われ、第一次世界大戦とその後の独立へと繋がった。しかし、東欧に生まれたのは巨大な真空地帯であり、ドイツとソ連によって東欧は蹂躙されることになった。オーストリア帝国の解体から30年後にこの地に存在したのは戦争の爪痕と鉄のカーテンだけだった。

 オーストリア帝国は失われてしまったが、この地の小国を取りまとめたいというニーズは尽きることはなく、彼らの理念は実は形を越えて継承されている。今回はそんな話である。

ドイツって何?

 ヨーロッパは無数の民族の中から次第に近代的な国民国家が出来上がっていた歴史だった。日本のように明確な境界が無いので、国民国家の多くはまず自己を定義することから始める必要があった。どこからどこまでがイタリアなのか?どこからどこまでがフランスなのか?こうした問題は近世から近代に掛けて欧州史のメインテーマだっただろう。

 さて、ドイツという国はどのような定義がされていただろうか。現在のヨーロッパ世界に源流となったのはカール大帝のフランク王国である。フランク王国は現在のドイツ・フランス・北イタリアを支配する帝国だった。奇しくもECの原加盟国と同じである。ここが欧州という地域の中核となったことは間違いない。ドーバー海峡で隔てられているイギリスやアラブ人の支配下にあったイベリア半島は中核から少し外れた地域ということになる。

 細かい経緯は省くが、カール大帝の死後、フランク王国は東西に分裂する。フランク王国の統治機構が弱体すぎて統一支配ができなかったからだ。この時代、欧州の国家は非常に弱体だった。日本の室町時代とそう変わらない。西フランク王国と東フランク王国の境界は現在の独仏国境の付近だった。ローマ帝国の支配するガリアとゲルマン人の支配するゲルマニアの境界と奇しくも一致していた。

 この独仏国境は欧州の歴史において最重要の亀裂となった。境界線の西側はローマ人が多く住んでいたためか、侵攻したゲルマン人は後にラテン語を話すようになった。現在のフランス語である。フランス語の興味深いところはゲルマン語の影響をあまり受けていないことだ。フランス語の独特の音韻はガリア征服前のケルト人の言語の影響らしい。ローマの文化はゲルマンよりも進んでいたので、ゲルマン人が「ラテン化」することで文化が創られたのだろう。独仏国境の東側はゲルマン語がそのまま話されていた。

 欧州の覇者となるには欧州の中核であるドイツとフランスの両方を支配することが必須である。実は欧州の歴史上、これを成し遂げた人間は三人しかいない。カール大帝・ナポレオン・ヒトラーである。ローマ帝国はドイツを支配することはできなかったし、ソ連はフランスを支配できなかった。それほど独仏国境の勢力は拮抗していて、長年膠着状態が続いたということだ。

 西フランクは現在のフランスとなり、東フランクは現在のドイツとなった。カール大帝は東西教会の対立が理由で西方教会の権威を増すために「ローマ皇帝」を名乗ることになった。東ローマ帝国の皇帝と西ローマの後継であるフランク王国の皇帝がいたことになる。これはもとを辿ればローマ帝国の東西分裂が原因である。フランク王国が東西分裂した後は東フランク王国が「神聖ローマ帝国」を名乗りだした。名目上はドイツの皇帝が西ローマ皇帝の後継者ということである。

フランク王国の分裂し、ドイツ・フランスは誕生した

 中世ヨーロッパは封建制の絶頂期であり、フランスもドイツも無数の小国家の連合体のような状態だった。フランス王家は軍事征服を通して王権を拡大し、国土の統一を図った。一方でドイツはそのような動きが見られず、いつまで経っても統一がなされなかった。次第に強大な統一フランスと小国家群のドイツという構図が定着するようになった。この時代のドイツは国家というよりも「バルカン半島」とか「中央アジア」のような地理上の名称だろう。「神聖ローマ帝国」とはいかにも強そうな名前だが、完全に名前負けしている。

ハプスブルクの勃興

 室町時代にも大量の領地を持っていた大名がいたように、分裂したドイツにも有力大名のような存在がいた。ボヘミアを支配したルクセンブルク家は良い例だ。しかし、ルクセンブルク家は次第に没落し、ベネルクスの小国となってしまう。他にもいくつかの勢力が断絶し、滅亡していった。

 その中でも比較的生きながらえたのがハプスブルク家だ。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の中でも東の端のオーストリアと呼ばれる国を支配していた。オーストリアはドイツ語でエスターライヒという。「東の国」というそのままの意味である。

オレンジはハプスブルク家の支配地域

 ハプスブルク家は運良く神聖ローマ帝国内部で領地を増やしていくことができた。結婚によって所領が手に入ることが多かったからである。ただし、このやり方だけでは大帝国を築くことはできない。

 ハプスブルク家が欧州の地域大国となったのはだいたい15世紀のことだ。大航海時代の少し前である。ハプスブルク家の勢力拡大は結婚によるものとされるが、この時代の結婚は全て政略結婚であり、その背後には地域の複雑極まりない勢力均衡が存在した。

 ハプスブルク家が手に入れた領地としてネーデルランドがある。オーストリアから遠く離れている。ハプスブルク家がこの地域を手に入れたのは普通の大帝国がやるような武力ではなく、ある種の同盟のような形だった。100年戦争でブルゴーニュ公という人物が存在したのを覚えているだろうか。ジャンヌ・ダルクを処刑した、親英勢力である。ブルゴーニュ公が支配していたのが現在のネーデルランドだ。100年戦争でフランスが勝利するとブルゴーニュ公国は窮地に陥った。フランスの軍事力に対抗できるパトロンがいなくなってしまったからだ。イングランドが去った今、代わりに頼りになるのは神聖ローマ帝国しかいなかった。ブルゴーニュ公国の継承者はハプスブルク家と婚姻し、ネーデルランドはハプスブルク家の領土となった。

 同様に、東方にも似たようなことが言えた。この地域はオスマン帝国の深刻な軍事的脅威に晒されていた。東欧の貴族は自分たちを保護してくれるパトロンを必要とした。またしても白羽の矢が立ったのはハプスブルクだった。こうしてハプスブルク家はチェコの国王を兼任するようになり、後にオスマン帝国から武力奪還したハンガリーを自国領とするようになった。

 このあたりの歴史はあまりにも複雑であるため、本質的な地政学的構造が見えにくくなっている。オーストリアが特に抵抗なく中東欧に領土を拡大できたのは、オスマン帝国という明白な脅威が存在したからだった。オーストリア帝国とは「共通の敵」への恐怖によって支えられていたのである。現代の中東欧の国が進んでNATOとEUに入ったように、中東欧の諸侯はハプスブルク家の支配を認めたのだった。

 こうして16世紀の初頭にはハプスブルク家はヨーロッパに広く所領を持つ大帝国となっていた。

三十年戦争

 近世に入るとまた状況が変わってくる。この時点でオーストリア帝国は名目上は神聖ローマ皇帝だったが、実際に支配している地域は一部に過ぎず、そのかわりに神聖ローマ帝国の外部に支配地域を持っているという複雑な状況だった。

 カール5世はスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねており、名目上は欧州の半分を支配していたことになるが、オーストリアとドイツの間の繋がりは希薄で、どちらかと言うと同盟に近い感覚であった。したがってオーストリアがドイツを支配していたとか、その逆というのは実態に反する。カール5世の死後にオーストリアとスペインは分立する。ネーデルランドと南イタリアはスペインが取り、中東欧はオーストリアが取った。

 この時、欧州ではフランスVSハプスブルクという構図が完成していた。フランスはこれまでも何度も神聖ローマ帝国の選挙に介入するなど、ドイツ地域への進出を狙っていたが、その度に強い反発を受けて失敗していた。欧州の勢力均衡や地域秩序が誕生したのはこの時期のことだ。これ以降、近世の欧州戦争が始まっていくのである。

 神聖ローマ帝国最大の勢力となったオーストリアは次第に周辺国から恐れられるようになる。ドイツ統一が完成したら地域の中心に強大な地域大国が誕生することになるが、それは周辺国の望むところではなかった。こうして発生したのが欧州最初の国際戦争である三十年戦争である。

 三十年戦争はもともとはチェコの宗教戦争がきっかけだった。しかし、すぐにこの戦争は地政学的な大戦争へと発展する。ドイツをバトルアリーナとして、周辺の大国が次々と介入していった。三十年戦争の構図は基本的にオーストリア・スペインVSドイツの新教徒・スウェーデン・デンマーク・オランダ・フランスなど、である。名目上はカトリックとプロテスタントの争いだったが、地政学的な本質はハプスブルクの二大国とそれ以外だった。特にカトリックのフランスが新教側に付いたのはこの戦争の宗教的意義が乏しいことを示している。

 もしこの戦争でオーストリアが勝利していたら、ドイツは統一されていたかもしれない。そうすればスペインと共にフランスを挟撃することができ、新たな勢力均衡が築かれただろう。しかし、そうはならなかった。オーストリアはこの戦争に敗北し、ドイツ覇権は潰えた。神聖ローマ帝国は正式に主権国家の集まりということになった。

 この時点でのドイツの勢力図を確認しておこう。ドイツは無数の小国の集まりであり、統一国家としての実態は無かった。その中でも勢力均衡の担い手になる大きさを持っていたのは最大国のオーストリア、次に大きいプロイセン・バイエルンの合計三カ国だった。

 ハプスブルクのドイツ統一の夢は潰えたが、これでオーストリアという国家の形がようやく明白になり始める。これまで神聖ローマ帝国・ハプスブルク帝国・オーストリア帝国の意味するところは曖昧だったが、これ以降は普通の国家としてのオーストリアを論じても問題は無くなる。

近世の汎ヨーロッパ戦争

 ヨーロッパの他の地域にない特徴は「汎ヨーロッパ戦争」とも言える大規模戦争が定期的に発生することだ。ヨーロッパの大半の地域大国が参戦し、複雑な合従連衡を通して勢力均衡を維持していくのだ。数え方にもよるが、汎ヨーロッパ戦争は全部で9回発生している。三十年戦争・大同盟戦争・スペイン継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争・フランス革命戦争・ナポレオン戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦、である。(多くは北米にも戦争が波及しているのが特徴だ)フランス革命戦争とナポレオン戦争を分けるのかという問題や、イタリア戦争やポーランド継承戦争など規模の問題で入れなかったものもあるが、ここら辺は解釈問題とする。

 スペインは三十年戦争に敗北し、没落していったが、オーストリアはそうではなかった。続いて17世紀の終わりに起きたのが大同盟戦争であるユグノー戦争とドイツの混乱で欧州最強の陸軍国へとなったルイ14世のフランスは拡張主義を強め、オスマン帝国と同盟を組んでネーデルランド・ドイツ・イタリア・スペインの四方面に侵攻しはじめた。この戦争でプリンツ・オイゲンはフランスとオスマン帝国を破り、三面六臂の大活躍だった。これによりオーストリアはハンガリー全土を奪還し、東欧に勢力を拡大していく。

 大同盟戦争から程なくして起きたのがスペイン継承戦争である。戦争の規模もだんだん大きくなってきた。ルイ14世はスペイン王家の断絶を奇貨としてスペインの併合を企てており、フランスの覇権を恐れた他の地域大国はフランス包囲網を敷いた。イギリスはこの時代から勢力均衡政策を取るようになり、安全なブリテン島から大陸の勢力を支援し、大陸の最強国を封じ込めえうというおなじみの手段を取っている。

 スペイン継承戦争の戦線は数が多い。イギリス遠征軍とオランダ軍がフランス軍と戦ったネーデルランドの戦線、オーストリア軍とドイツ諸侯がフランス軍と戦ったドイツの戦線、同じくオーストリア軍とサヴォイア公国の軍がフランス軍と戦ったイタリアの戦線、フランスのスペイン併合に反発する地方勢力が反乱を起こしたスペイン国内の内戦などがある。北米ではアン女王戦争が行われた。これに加えてオーストリアにとって脅威になったのはハンガリーの反乱だった。ハンガリー人はオスマン帝国の脅威が無くなると、ハプスブルクに反感を持つようになったのだ。戦争と同時並行でハンガリー人のラーコーツィーはオスマン帝国の支援を受けてハプスブルク家への反乱を起こしていた。これ以降、150年の渡ってハンガリーはオーストリアの不穏分子となる。スペイン継承戦争の結果、オーストリアはベルギーを自国領とすることに成功した。

 近世も終わりに近づいてくると、今度は北方のプロイセンが台頭してきた。これまでドイツの勢力はオーストリアが最強で、バイエルンとプロイセンがそれに続く感じだったが、ここに来てプロイセンが軍事強国として名乗りを挙げてきた。いわゆるフリードリヒ大王の時代だ。続いて発生したオーストリア継承戦争でマリア・テレジアのオーストリアはフリードリヒ大王のプロイセンと激戦を戦った。フランスはプロイセンを支援し、イギリスはフランスを封じ込めるためにまたもやオーストリアを支援した。結果はプロイセンの勝利で、オーストリアはシレジア地方を失うことになった。

 リベンジを掛けてマリア・テレジアは300年の宿敵だったフランスと組む。ロシアも加えた三国同盟でプロイセンを包囲し、今度こそ勝つかのように思えた。これが七年戦争である。しかし、ロシアで皇帝が交代したことや、イギリスの熱烈な支援があって、プロイセンはなんとか生き長らえる。この戦争は世界規模で行われ、インドや北米でイギリスとフランスの間で戦争が行われた。

二重帝国の成立

 七年戦争から少し経ってから、今度はフランス革命が発生する。再びヨーロッパは戦争が巻き起こる。七年戦争の辺りからフランスとオーストリアの友好関係は続いており、ハプスブルク家からはマリー・アントワネットがフランス王家に嫁入りしていた。オーストリアは当初からフランスの革命政権に敵対的で、国王を処刑したら戦争を始めると警告していたが、フランスの革命政権が思いとどまることはなく、フランス革命戦争が始まった。

 この戦争で常に矢面に立たされたのはオーストリアだった。ベルギーは当時オーストリア領だったが、フランス革命によってハプスブルク家の支配が崩れていた。オーストリアは自国への脅威を防ぐためにフランスと幾度となく交戦したが、ナポレオンの圧倒的な軍事力の前に敗れ去った。宿敵だったプロイセンも参戦するが、刃が立たず、ウィーンが陥落してオーストリアはナポレオンの軍門に下った。ハプスブルク家のマリー・ルイーズはナポレオンとの政略結婚をしたが、ナポレオンのことは当然敵だと思っていたらしい。

 結局、ナポレオンは対仏大同盟の前に破りさり、欧州はアンシャン・レジームが復活した。いわゆるウィーン体制だ。この体制を主導したのはオーストリアで顕著な働きをした最後の人物である、宰相メッテルニヒである。このウィーン体制時代のヨーロッパはキッシンジャーが理想と語っており、ヨーロッパ史の中ではかなり安定した時代だった。地政学のパズルのピースがうまく噛み合っていたからだ。

 ウィーン体制時代のヨーロッパはフランスとロシアが二大陸軍国であり、世界帝国へと進化しつつあるイギリスが両者のバランスを取っていた。フランスとロシアは距離が離れており、両者の間にはプロイセンとオーストリアが存在していた。当時の両国は他国を滅ぼすほど強くなく、他国に滅ぼされるほど弱くはなかったので、絶妙な緩衝国となっていた。

 このウィーン体制の地政学が崩れるのが19世紀の中盤だ。1848年にヨーロッパで一斉に革命が起こり、一般にはここでウィーン体制が崩壊したとされる。フランスでのオルレアン朝の崩壊に続き、イタリアではマッツィーニの反乱が起こり、ドイツでも統一運動が盛り上がった。1848年革命はすぐさま一連の戦争に繋がった。イタリアでは統一を目指すサルデーニャ王国がオーストリアと開戦した。同時にウィーンでは暴動が発生し、ハンガリー人はオーストリアからの独立を求めて反乱を起こした。オーストリアは最終的にロシアの援助を得てこれらの暴動を鎮圧し、サルデーニャとの戦争に勝利した。この混乱の中で即位したのがフランツ・ヨーゼフ皇帝である。

 だが、ここで戦争は終わらなかった。これまで欧州の中央部に存在していたドイツとイタリアは小国家の集まりだったが、産業革命やナショナリズムを背景に、統一運動が起こり始めたのである。やはり、一等国としてやっていくには小さすぎてはダメだということだろう。東欧の諸民族が統合を求めたのと同じである。

 ところが、オーストリアはドイツ国家の筆頭だったにも関わらず、統一からは排除されてしまった。代わりに統一の主役となったのはプロイセンだった。ビスマルク率いるプロイセンは普墺戦争でオーストリアを破り、続いて普仏戦争でフランスを破った。東欧の諸民族がオスマン帝国からの保護を求めたように、西ドイツの小国家はフランスからの保護を求めた。プロイセンはバイエルンやザクセンを併呑し、欧州の最強国として急成長を遂げた。これにより、ヨーロッパの勢力均衡は激変することになる。

 普墺戦争に敗れたオーストリアはドイツ国家としてのプライドを捨て、中東欧の帝国として生き残りを図る。通称アウスグライヒと呼ばれる改革で、オーストリアはハンガリー人に妥協し、連邦国家へ体制を変えた。今まで何度もオーストリアに反乱を起こしていたハンガリー人は打って変わって大喜びし、フランツ・ヨーゼフ皇帝とハプスブルクの帝国を熱心に支持するようになった。ここまで対応が変わる民族も珍しい。これ以降、オーストリア帝国はオーストリア・ハンガリー二重帝国となった。

世界大戦とオーストリアの落日

 プロイセンに敗北したにもかかわらず、二重帝国はドイツへの依存を強めていくことになった。二重帝国はロシアの脅威を感じ始めていたからだ。意外にも両者が本格的に交戦したのは第一次世界大戦だけだが、対立はクリミア戦争の辺りから始まっていた。ロシアは南下政策の一環としてバルカン半島への進出を目論み、オーストリアの南縁を脅かしていた。オーストリアが頼れるのはドイツしかいなかった。ロシアとオーストリアの間には何度か危機が発生したが、ドイツの圧倒的なパワーの前にロシアは沈黙せざるをえなかった。ロシアはドイツを挟むために自然とフランスに接近するようになった。以前は宿敵だった両国だが、ドイツ統一が原因で共通の敵を見出すことができたのだ。

 ヴィルヘルム2世が即位すると、もはやドイツは自制心を捨て始めた。ドイツは欧州最強国のプライドを満たすためにイギリスへの対抗を始め、英仏露の三国同盟によって包囲されることになった。オーストリアはドイツに付き従うしか無かった。

 20世紀の初頭になるとオスマン帝国がついに寿命を迎え、急速な衰退を始める。これによってバルカン半島は急速に混乱が始まることになった。新たに独立を勝ち得たセルビアなどの民族は大変好戦的で、民族主義が高揚していた。オスマン帝国が撤退するとそれまでオーストリアにヘコヘコしていたセルビアは無謀にも攻撃を仕掛けるようになった。オーストリアは衰退したいたので、セルビアの挑戦を叩き潰す力が失われていた。

 そしてセルビアの好戦性は暴走し、サラエボ事件が起こることになる。オーストリアはオスマン帝国の撤退に伴い既に支配下においていたボスニアを併合したが、セルビアの民族主義者からは強い反発を受けた。この時、戦争が勃発しかけるが、ドイツがロシアに圧力を掛けたことで止まった。ボスニアはセルビアの固有の領土だというのである。セルビアの軍部の右派は堂々とテロ組織を支援し、サラエボ事件が起きた。オーストリアはついに堪忍袋の緒が切れた。

 第一次世界大戦の原因について語ると長くなるので割愛するが、これが原因でオーストリアは世界大戦に巻き込まれることになる。オーストリアの戦線は3つも存在した。ロシアと戦う東部戦線、セルビアと戦うバルカン戦線、イタリアと戦うイタリア戦線である。オーストリアは国力の弱さもあってロシアとの戦いは苦戦が続いたが、それでもイタリアに対しては終始優勢だった。バルカン戦線でも当初苦戦したが、ブルガリアの参戦で何とか半島を制圧した。

 1916年に68年も在位したフランツ・ヨーゼフ皇帝が崩御する。二重帝国の歴史はこの人物に始まって終わるといっても過言ではなく、もはや二重帝国の理念は皇帝への個人的な敬意によって成り立っていた。後に即位したカール一世が最後のハプスブルク皇帝となる。

 1917年にロシア帝国が崩壊するとオーストリアは東方からの圧力が和らぐが、既に戦争を続ける余裕はなくなっていた。1918年にドイツ軍の攻勢が失敗すると中央同盟国は連鎖的に崩壊し、オーストリアも連合国への降伏を余儀なくされる。カール1世はスペインに亡命し、ここにハプスブルク帝国の歴史は終焉を迎えた。

 戦争によって二重帝国では130万人もの人が死亡したと思われる。オーストリアの人口の3%に相当する。最も熱心に戦ったのはハンガリー人で、戦死者の割合も最も多かった。ハンガリー人はハプスブルク家に忠実で、帝国の崩壊後もハプスブルク家の復帰を求めていた。かつての反乱者が最も忠実な民族となったのは、なんとも皮肉である。

オーストリアの地政学的意義

 オーストリア帝国の奇妙な点は国民国家の主幹となる民族が存在しないことにある。当初はドイツ諸侯の筆頭で、神聖ローマ帝国皇帝だったにもかかわらず、ドイツ統一からは排除され、中東欧の多民族帝国となった。人口のうちドイツ人が占める割合は25%に過ぎず、残りはスラブ人やハンガリー人が占めていた。このような民族のモザイク状態の国家がナショナリズムの時代を生き延びるのは難しく、第一次世界大戦とともに跡形も無くなってしまった。ロシアやトルコが帝国の中心部が残ったのに対し、オーストリアは何も残っていない。

 オーストリアは民族主義国家として生まれたわけでもなかれば、遊牧民が武力征服してできた大国でもない。ドイツの諸侯の一つが運良く拡大し、いつの間にか多民族国家になっていたというのが実情だ。これほど脆弱な国家が欧州の大国として存続していたのは、中東欧地域をひとまとめにするというニーズが存在したからだろう。中東欧の民族はあまりにも小さく、国民国家を作っても生き残れないことを分かっていたのである。ドイツ小国がプロイセンの指導を仰ぎ、イタリア諸国がサルデーニャの指導を仰いだのと似たようなものだ。第一次世界大戦の際も二重帝国の解体と地域の不安定化を懸念する人は多かった。彼らの予感は的中し、20世紀の中東欧は悲惨な運命に巻き込まれる。

 戦間期に新たに生まれた小国はどれも不安定だった。オーストリアとチェコは抵抗することなくナチス・ドイツに併呑された。ハンガリーとスロバキアはドイツの衛星国となった。クロアチアはユーゴスラビアに参加したものの、程なくして幻滅に襲われた。これらの国の多くは第二次世界大戦後にソ連の占領下に置かれ、共産主義体制の下で抑圧されることになった。戦前のチェコスロバキアは世界有数の工業地帯だったが、1989年の時点では東欧の貧乏国になっていた。

 そんな中東欧だったが、現在は安定と繁栄を手に入れている。代わりにEUが発足したからだ。おかげで小国であっても何ら不自由なく生活することができるようになった。EUの緩やかな結束はオーストリア帝国と少し似たところがある。グーテンホーフカレルギーやガスペリといった欧州連合の提唱者たちは二重帝国の多民族主義を念頭に置いていたことは間違いないだろう。

 そして欧州連合の父として忘れてはならないのがオットー・フォン・ハプスブルクだ。最後の皇帝カール1世の遺児である。失われた多民族帝国の理念は大きく形を変えて現代に繋がっていると言えるかもしれない。

 

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