「東大VS医学部」(中高年の生き方編)

 この前は久しぶりに実家のリフォームの手伝いをしてクタクタになってしまった。実家の周囲も高齢化が進み、随分老けた人が増えたなという印象である。筆者は中高年(45歳〜75歳くらい)の人間を観察していて、色々思うことが多い。実家の周囲にも昼間から庭いじりに興じる60代元エリサラが多数観測できた。

 学歴考察やキャリア考察で話題に登るのはせいぜい30代までで、そこから先はほとんど話題に登らない。しかし筆者は人間にとって長期的目標が重要だと考えており、20代30代を乗り越えたその先にどのような現実が待ち受けているのかに関心がある。この話題について語ると膨大な量の考察が書けてしまうが、今回は「東大VS医学部論争」の続きとして、中高年の人生について考えてみたいと思う。

 結論から言おう。中高年になると東大と医学部の格差はかなり開く。もはや埋めることのできない差である。しかし、当事者の殆どはこの意味合いに気付くことはない。それどころか、強みを活かせない人がほとんどなのだ。

東大卒シニアの命運

 東大卒の多くはエリサラになる。仕事の性質を考えると、官僚もここに含めても良いだろう。基本的に大組織のメンバーとしての生き方である。筆者が以前提唱した「マクロ型エリート」だ。最近はジョブ型雇用が増えてみたので一概に言えないところがあるが、筆者はコンサルやエンジニアといった業界にはあえて言及しない。それはジョブ型の働き方が最近浸透したものであり、中高年の生き方を論じる上で十分な考察ができないからでもある。したがって筆者の考察はちょっと古臭いかもしれない。

 東大の進路選択の幅は確かに広い。東大文系の同級生を見ても、傍系進学で理転してGAFAMに行ったものや創薬研究者になった者がいる。最近は東大文三から数学者になった人のnoteがバズっているらしい。こんなことができるのは東大だけだ。もちろん官公庁や一流企業の行くものがメインストリームであるが、その幅も広範に渡るだろう。

 ただし、東大のマジョリティは卒業してもタダの人になってしまうので、卒業後の進路選択の自由度がかなり低いということは以前にも述べた。「東大卒」の肩書をキャリアで活かせるのは新卒かせいぜい第二新卒くらいなのだ。基本的に1回券と考えて良い。学歴的な強みは中高年になるとほぼ消滅する。

 東大卒の進路の多くを占める文系総合職は進路選択の自由度がほとんど存在しない。というより、(社風によっては)皆無である。これは文系総合職が本質的に集団競技に近く、個々人の自律性・属人性が低いことに起因する。東大生の優れた頭脳は受験勉強という「個人競技」に由来しているため、ルールが集団競技になると以前ほどの強みは発揮できないのだ。

 となると、東大卒エリサラの「将来」はかなり限られてくる。それは①社内で出世する、②キャリアダウンする、の二択である。

 ①については良く知られている通りである。日本企業は同期と一斉スタートで出世競争が開始され、40代に大体結果が見え始め、50代で勝負が付く。50代になるとその先の展開は期待できなくなるので、多くの人間はキャリアの終わりを確信する。そして静かに定年を待つのである。会社員の多くはこの年代になると完全に仕事への意欲を失ってしまうようだ。

 ②のキャリアダウンは窓際族が代表である。出世の芽はないと感じたエリサラは40代の時点で既に会社人生に見切りを付け始める。会社にもよるが、筆者の観測範囲では40歳になると黄昏研修が始まり、「趣味を作りましょう」と推進されるらしい。ただし、ここから20年ほど会社人生は続く。というのも、JTCの給与水準は高く、外の世界に漕ぎ出すメリットはほとんど存在しないからだ。窓際族を選択したエリサラは定年までの長くて厳しい時間つぶしが始まっていくのである。

 転職はどうか。最近は転職前提のキャリア構築も流行っているらしいが、基本的に伝統的に日本社会では転職はしないほうが無難である。というより、基本的にキャリアダウンの性質が強い。大企業に疲れて家の近くの中小企業に転職して時間が増えるといった具合である。中高年になると転職は自殺行為になる。正直、日本社会において転職はキャリアアップというよりキャリアチェンジの性質が強く、どれほど転職が流行ろうとも結局は40歳までに落ち着ける会社を探す必要がある。

 ここまではサラリーマン全体に言えることだが、ここに東大卒には2つの要素が加わる。東大卒の多くは一流企業に勤めており、しかも出世欲が強いということだ。となると、ますます選択肢は限られてしまう。他大学の出身者と比べてスタートは同じだが、サンクコストは大きいので、レールから外れることで精神的に失うものは大きい。「会社を離れて自由に生きる」といったことはかなり難しいのである。

 そして65歳の定年後になると、基本的にこれまでのキャリアは消滅すると考えて良い。実質的には50代の時点でほぼ失われているようなものだ。東大卒はもちろんのこと、多くの肩書・資格はこの段階になると役に立たなくなる。ここから就ける仕事は介護・警備・飲食など、スキルをほとんど必要としない(ただし体力は消耗する)肉体労働に限られる。一流企業でそこそこの肩書にあった者はわざわざこうした業界に行こうとは思わないだろうから、多くのエリサラはここで引退生活に入る。

 東大卒エリサラの厳しい点は、中高年のキャリアの出口戦略がこれ以外にほとんど存在しないことにある。起業や独立ができるのは一部の人間に限られるし、転職すらほぼ不可能だ。これは元を辿ればキャリアの自己決定権が極めて乏しいという特徴に由来する。

 それでは医学部の場合はどうか。東大卒のエリサラと違い、随分と違う進路をたどるようだ。

医学部卒シニアの命運

 医者もメインストリームの人間はエリサラとあまり変わらない。大学病院で出世競争に明け暮れ、大病院の部長といったポストを争奪し、ある年齢で「自分はここまでだったんだ」と納得し、一線を退く。旧帝医学部に至っては普通の一流企業よりも遥かに内部競争が熾烈である。このあたりは「白い巨塔」を考えれば良い。通常の意味での出世競争をしようとすれば医学部卒の運命は東大卒のエリサラと殆ど変わらないだろう。給料もぶっちゃけ似たようなものだ。

 ところが医学部卒はこの段階においても選択の幅が多い。これが医者の最大の強みである。医者の場合はキャリアの出口選択として、①医局で出世する、②キャリアダウンする、以外に③開業する、④フリーランス化する、という選択肢が取れるのである。

 ②のキャリアダウンに関しては明確に東大卒より恵まれていると言えるだろう。医学部卒は(理三などを除いて)東大卒のようなサンクコストがないので、「タダの医者」であってもそこまで精神的に問題はない。医局で出世できなかった敗北感はあるかもしれないが、エリサラと違って医者の場合は給料を上げることが容易であるため、精神的なダメージを和らげることができる。

 また医者は専門職であるため、業務の自律性や裁量権が大きく、降格されたシニア社員に比べてQOLは明らかに高いだろう。むしろ医者は現場に出てナンボという考え方もある。キャリアダウンで一兵卒に戻ったとしても、地域医療に携わって患者に感謝されるのと、年下の支店長に怒られながら銀行の窓口業務に勤しむのでは随分と意義が違って見えるはずだ。

 なにより重要なのは開業するという選択肢があることだ。これはエリサラには手の届かない、重要な出口戦略である。筆者の周囲を見ていても、独立起業した人間は軒並み満足度が高そうである。明確に言語化はできないが、とにかくサラリーマン的な働き方とは本質的に違うらしい。実のところ、独立開業が容易という要素によって出世への不満は緩和されているのではないかと思う。開業した場合は個人事業主として立場が変わるため、ある意味で身の丈にあった達成が得られるということだ。

 フリーランス化という道もある。医師でありながら作家をやったりジャーナリストをやったりという人間はこのパターンだろう。しゅんしゅんクリニックのような変わった人もいる。医者をやりながらピアニストをやっている人もいる。テレビに出ている医師も似たようなものか。いずれも医者の世界で本流とは言えないかもしれないが、自分の専門性を生かして好きな活動をしているという点では満足度はそれなりにあるだろう。これは年収800万を切らないという医者の特性が大いに寄与している。サラリーマンにこうしたキャリアは難しい。フリーランスは収入が不安定で食いっぱぐれるリスクがある。副業という手もあるが、サラリーマン続けていると悪いことをしたわけでもないのに身元を隠さざるを得ないし、本業とのシナジーも生まれない。サラリーマンは野良犬か飼い犬の二択しかなく、選択が両極端なのだ。

  また、開き直ってしまえば医者は圧倒的に強い。サラリーマンがキャリアダウンした場合でも一日の大半を仕事に取られるのに対し、医者の場合はバイトや非常勤で生計を立てるということも可能なので、プライベートを通じた自己実現をするにしても医学部の方が圧倒的に優位だ。キャリアダウンしたサラリーマンが周囲の冷たい目線に晒されるのに対し、医者は転職が容易であるため、バイト医のように固定的な人間関係を持たないこともできる。流石に一般的な進路とは言えないが、プライベートに全振りする場合でも医学部の圧勝である。

定年後の格差

 なにより医者は定年がない。したがってキャリアを軟着陸させることが可能である。医局の出世競争に敗れたとしても、転職して細々とキャリアを続けることは可能である。医学部の教授が退任と同時に一兵卒に戻って地域医療に勤しむなんてケースもある。他の医者もフリーランス化や開業で自分にあったペースで業務を年齢に見合った量に減らしていけば良い。これは働き方の自由度が高い医者の強みだろう。

 エリサラと比べた時の最大の強みはこの点である。エリサラは会社の中で出世するか窓際族になる以外の選択肢がなく、働き方の自由度が低い。引退年齢も自分では決められない。なにより引退後のセカンドキャリアが存在しないというのが医者との違いである。65歳という年齢は何かを新しく習得するにはあまりにも遅すぎる。それにもかかわらず、40年間のキャリアを活かせる職場は少ない。セカンドキャリアを描くには40代50代で別の進路に進む必要があるが、賃金カーブを考えると難しい。こうなると、就ける仕事は介護や警備といった肉体労働に限られる。こうした仕事が悪いと言っている訳では無いが、これまでの学歴・職歴が全く活きないので、一体これまでの頑張りは何だったのかということになる。政治家にせよ、芸能人にせよ、老年期に活躍している人は基本的にそれまでに積み上げた手腕や認知度をもとに活動していることを考えると、エリサラのセカンドキャリアは極めて難しいと言わざるを得ない。多くの人間はわざわざ肉体労働に就くのではなく、無職になることを選ぶ。

 エリサラは働き方の自由度が極めて低いので、フルタイムで激務か、無職になるかの二択しかない。したがって体力が低下した高齢期の働き方にはあまりそぐわないのかもしれない。医者や弁護士、多くの自営業者がペースを落としながらこれまでのスキルを生かし、老年期のキャリアを描くのに対し、エリサラは何者でも無くなった自分と折り合いを付けながらで庭弄りに勤しむのである。別に退職後に会社の人間関係がコミュニティになるわけではないらしいので、本当にそれまでの社会生活は消えてしまうのだ。

 実家の近くも高齢化が進み、60代の定年エリサラが散見されるようになった。皆総じて暇そうである。中には朝から晩まで近所の覗きに勤しんでいる者もいる。筆者が実家の前を通った時も即座に家から出てきて話しかけてきたので、本当に24時間態勢である。人に感謝されていることに飢えているのか、頼んでもいないのにありがた迷惑な親切をしてくる人もいる。別に悪い人では無いのだが、せっかく元気なのにもっと生産的な生き方は無いのかなあと思ってしまうのだ。

 また、退職と同時に老け込む人も多い。親戚を見ていても、老年期に社会活動をしている人としていない人では全く雰囲気が違っていた。後者は頭もぼんやりして「老人臭い」のである。人生100年時代、あまりにもこれではもったいなさすぎる。サラリーマンは老化するから老人になるのではなく、老人になるから老化するのかもしれない。退職するまで好きなことを我慢していても、いざ退職してしまうと社会との繋がりを失ってしまい、タダの老人になってしまうのだ。

 だが、サラリーマンを長年続け、適応できた人たちはあまり疑問を持っていなそうでもあるのだ。あまりにも他人に決められる人生を歩んで来たため、75くらいには死ぬものだと思っているようなのである。これ以上の考察はキャリア論というより人間考察の領域に突入するので控えるが、筆者には不可解でならない。多分、環境適応能力の裏返しなのだろう。筆者はソルジャー気質の人間がなぜあれほどやる気があるのか不思議でならなかったが、この年代になるとなぜやる気が無くなるのかも不思議である。

 一方、筆者の親戚で何らかの方法でキャリアを継続できた人間は年齢の割に生き生きしていることがほとんどだ。何歳になっても新しいことに関心を持ち、人間関係も広く、頭がはっきりしている。60代になっても自信満々でやりたいことを語ってくる。こちらの方がやはり実りある人生なのではないかと思ってしまう。起業や社会活動など色々方法はあるのだが、やはり最も手っ取り早いのは医師や弁護士のような独立性・属人性の高い難関資格だろう。退職後にゴルフの「教え魔」として煙たがられるよりも、医者として感謝される方が生きがいを見いだせるはずだ。

「夢」の移行

 東大という大学は科学者のような「子供の夢」を実現する上では有効かもしれないが、「大人の夢」を実現するには実に不向きな場所である。東大卒の中間層は「子供の夢」に挫折し、普通のサラリーマンになり、どこかで競争に敗れて退職していく。現役時代にやりたいことを我慢してきたのに、退職しても何も残らないのだ。自己実現を行おうとしてもそれはプライベートの世界に限られる。東大卒の肩書は消えることは無いが、この要素を重視すると価値観が過去志向になってしまう。これは決して前向きな生き方とは言えないだろう。

 一方、医学部は確かに現実的・打算的な進路選択かもしれないが、「大人の夢」を実現する上ではかなりのアドバンテージである。サラリーマン的な出世競争に明け暮れたり、研究者として名を挙げる人もいるが、独立やフリーランスという道もある。中高年になると人に感謝されたり社会貢献したいという願望が強くなるので、この点でも医者は特上である。老年期も今までの経験と知識を生かして細々と続ける事もできる。これらは皆サラリーマンにとって叶わぬ夢である。その上給与面でも圧倒しているのだから、言う事無しである。

 この「子供の夢」が「大人の夢」に移行する年代がちょうど大学から社会人くらいの年代なのだろう。18歳の時に交際していた人間と結婚を考える人間はそう多くないが、22歳とか24歳であれば結構現実的な話である。後者はまさに「大人の夢」の良い例かもしれない。多くの人間が「18歳段階で医学部に決められる人間は多くない」と述べているのは、医者の選抜が「子どもの夢」の段階で行われるからだと思われる。「大人の夢」に価値観が移った時点では既に手遅れなのである。逆に言うと医者の多くはこうした事情に関して実感することはないだろう。大人としての「物心」が付いた時点で既に医学部の試験に追われているからである。

 順調に進んだ場合、人間のポテンシャルは20歳頃にピークになり、その後はどんどん失われていく。20歳時点でのポテンシャルは東大生が最大であることは間違いない。しかし、就職して選択肢を切っていく段階になると、医学部卒と逆転するようになる。東大卒の有名人は医学部卒よりも多いだろうが、東大卒サラリーマンの有名人は医学部卒よりもおそらく少ないだろう。エリサラとして出世しても、役員クラスまで行けば別かもしれないが、多くは部長辺りが関の山だろう。JTCの部長が医者に大して社会的地位で勝っているかは微妙だし、そこまで行く窮屈さや運を考えると医者の方が上だろう(給与面は人による)。

 社会人になってからの可能性を広げるには18歳段階で選択肢を切るというトリッキーな戦略を取る必要があり、多くの人間はここに気が付かない。もしかしたら大学受験における最大の「引っ掛け問題」かもしれない。





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