はじめまして 自己紹介
こんにちは!らすくです。
たまたま何かについてXで検索したら、AIについて盛り上がっていることを知ったのが昨年12月のことでした。
アーヤさんのTIPを購入して、画像生成AIでこんなことができるの?私もやってみたいと思って即購入しました。
アーヤサロンにも入れていただき、生まれて初めてDiscordを使いました。
最初の頃は、皆さんお若いんだろうなぁ〜と、実はちょっとビクビクしていました(笑)
何かのきっかけで年齢を明かしたのですが、みんな変わらずにお付き合いしてくださって、優しいなぁと思っています(^-^)
そして、ふと自己紹介でも書いてみようという気持ちになりました。webデザイナーへの道のりから現在に至るまでを柱に書いていきます。
モノ作りが好き
学生時代から絵を描いたり何かを作ることが大好きでした。
今だにモノづくりは大好きで、家の中の簡単な大工工事は夫ではなく、99パーセント私です。最近だと子供部屋の本棚、ゲーミングPCを作りました。
ゲーミングPCを作るのは初めてでしたのでかなり大変でしたが、出来上がった時の達成感はひとしおでした。
大卒後は普通の事務職
大卒後、いきなりデザイナーになったわけではありません。普通の会社に就職し、普通の事務職として働いていました。
職場の待遇や人間関係も良く、適度にヒマで(笑)恵まれた環境でしたが、好きなことを仕事にしたいという気持ちが膨らみ続けていました。
2年目のボーナスと貯金で、Power Macintosh 7300 とphotoshopを買い、独学で色々と作ったりしていました。
しばらくしてデザインの基礎を学びたいと思い、夜に専門学校へ通いました。そして、次の就職先のあてもなく3年目に退職しました。
仕事が決まらない
当時まだホームページを持つ企業は少なく、webデザイナーという職業での募集もない時代でした。
私も、webデザイナーという仕事は知りませんでしたし選択肢になかったので、まずは広告関連のデザイン会社を受けました。
ところが、実績、即戦力のなかった私は面接全落ち。
今思うと計画性のない転職活動でしたね。
挫折を経験してもデザイン会社への転職の夢を諦めきれずいましたが、生活をつなぐためにTV局の美術進行のバイトをしました。
美術進行の仕事内容は美術関連備品等の発注、撮影前後の準備撤収、撮影中の補佐等でした。ドラマロケの時は美トラ(美術トラック)に乗って現場へ行き、設営等も行いました。
事件の再現シーンの番組を担当したことがあって、血糊や人形(当時人形も色々種類ありましたww)を美術倉庫へ発注などもしていました。血糊○本、みたいに紙ベースで発注をかけますww
体力的に、ホントにキツイ仕事でしたね。
バイトをしながら自分のその後についていつも考えていました。
その頃、少しづつwebデザイナーという職業の募集も目につくようになりました。そして、webデザインの専門学校等も続々開校されました。
デザインの世界に入るには、webデザインという職種しかチャンスがない!と思い、仕事の合間にインターネットアカデミーという学校へ通い始めました。当時は新宿の小さいビルにありましたが、今はとても大きな専門学校に成長しています。
バイトを経て、ベンチャー企業へ
当時は、htmlが書けてグラフィックデザインが出来ればとりえず、webデザイナーとして仕事につくことが出来ました。
たまたま見つけた会社で、webデザイナーとして採用していただき、そちらで1年間働きました。
その後、某ベンチャー企業の面接を受けたところ採用していただき、ここでやっとデザイナーの夢が叶います。
その企業は今では東証一部上場の大企業に成長しましたが、私が入社したときは小さなビルにオフィスを構え、従業員は60名ほどでした。
社内はベンチャー魂と言いますか、どの部署もすごい活気に溢れていました。
今のAI革命の波と同様に、当時はインターネットで先行者利益を得るために、企業の競争が加熱していました。
仕事内容は、季節ものの企画ページやチャリティーオークション企画ページ、バナー作成、それとガラケーページもありましたのでgifアニメーションで出来るおみくじゲームのデザイン等を担当していました。
マーケティング部の方と打ち合わせをし、デザイン作成、開発部へ渡す、というのが主な流れでした。
下流工程にいるデザイナーや特にシステム開発部の方は、残業がとても多かったです。
開発部の方で会社に布団を持ち込んでいる方もいました。強要はされませんでしたが、デザイン部も残業はしょっちゅうでした。
結局晩御飯も食べずに残業するので、残業後に食事とストレス発散を兼ねて同僚とほぼ毎晩飲みに行ってました。
同僚と一緒に飲みながら愚痴もこぼしましたが、会社の成長を日々この目で見ながら働くことに無意識にやりがいはしっかり感じていたと思います。
半年ぐらいして会社が上場し、急速に社員も増えて社屋も移りました。
また、さまざまなサービスがどんどんリリースされ会社は急成長していきました。
今でも覚えているのですが、社長が都度朝礼で「ビジネスはスピード!!」とおっしゃっていました。
当時は、デザインのクオリティよりスピード優先という社風に、同僚とモヤモヤしたものを抱えていました(だから毎晩飲みに行ってたというのもある笑)
でも、経験を積むうちに、ビジネスはスピードが最優先!!ということに、本当に共感しました。
自分が思いついたアイデアは、同時に誰かがどこかで思いついていると思った方がいい。
だから、一番を取りたかったら誰よりも早く自分がその地位を取るのだと全力で取り組むべき、と今は思います。
AI革命が起こっている今は、まさにその通りで、スピード感を最優先してきた社長だからこそ、日本を代表する企業へ成長させることが出来たんだなと思います。
デザイン会社へ転職
この会社でのwebデザイン業務は、簡単に言いますとスーパーのチラシ的な感じでしたので、もう少しデザインの幅を広げてみたいと思い、転職活動を始めました。
そして、幸いにもweb制作では有名なデザイン会社に採用していただきました。
その会社ではコーディングとデザインは完全に分業でした。
私は最初、アシスタントデザインとして働きました。
主な業務は企業様のHP制作で、大企業が多くさまざまな業種に関わらせていただきました。
こちらもかなり忙しい会社でした。
深夜まで残業は当たり前で、私も会社によく泊まっていました。
タイヤがついているオフィスチェアを2つ並べて、器用に寝てました。
そして朝は給湯室のシンク洗顔、腕をギリギリまでまくって腕も洗ってました(X世代の女子から、そんなこと女子としてあり得ないって言われそうです。笑)
結婚〜退職
結婚することになり、さすがにしょっちゅう会社に泊まるわけにもいかないので、退職して派遣登録をして某企業のWEB制作部でしばらく働きました。
子育て〜介護〜パニック障害
退職直後はしばらく無職でいましたが、子供たちが小学生になったのを機にまた外で働き始めました。同時にフリーランスの仕事も少しづつ入ってきたので並行していました。
40歳半ばで、急遽母が病気になり子育てと介護が重なって疲弊し、母の死後仕事の忙しさが重なり、パニック障害になってしまいました。
初めての症状に、何が起きてるのか全くわからず、すごく怖かったです。
今までできたことが全く出来なくなりました。
電車、レストラン、学校の懇談会、映画館、美容室など全部ダメで、入ると過呼吸気味になって怖くなってしまい、ますます遠のきました。
でも、それまで健康だったので絶対に治るはず!と、パニック障害について書かれた本を沢山読みまくりました。
薬も飲み、初期はカウンセリンクも受けさせられました。主治医の先生と相性が合ったのが良かったみたいで、2年かけて完全に良くなりました。
今では、元通りの生活を過ごせていますし、緊張感あるバドミントンの試合も全然問題ないです。
最近
ずっとバドミントンが大好きで暇さえあれば練習に行っていましたが、最近はAIビジネスやXの運用について勉強したくて、どちらを優先すべきか迷ってしまいます。
いずれにしても、何かに夢中になり走り続けるということは、とてもハッピーで幸せなことだなぁと感じています。
50歳を過ぎると、周りでも介護が始まったりご病気になられたりと、色々なことが起こるので、若い頃は全く感じなかった自分の老後や、後何年元気でいられるんだろうか、ということをとても意識するようになってきました。
これからの数十年は、引き続き家族や友達を大切に、そしてもっと濃くて楽しい人生にしていこうと思います。
ご精読ありがとうございました(^-^)
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