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写真は「記録」ではなく、 「記憶」

私は写真を撮るのがとても好きだ.横断歩道に鳥が歩いていれば携帯電話のカメラを向けるし,友達と遊びに行くときはリュックの小ポケットやショルダーバックに写ルンですが常備されているし,どこか旅行に行くときは気分に合わせてデジタル一眼レフかフィルム一眼レフかを決めて首からぶら下げる.

写真に本格的に興味を持ったのは,2017年 僕が17歳のときだ.

PRNTAX spというフィルム一眼をメルカリで購入.

カメラが届いた日はワクワクが止まらなかった.普段母と喋らない僕が,その日は話しかけに行った.母は笑顔だった.

嬉しくてそのカメラを布団の上に乗せた写真を携帯で撮った.

勉強嫌いの僕だが,カメラを学ぶのは苦じゃなかった.

Youtubeでフィルムの装填,ブログでF値,シャッタースピード,ISO感度,ホワイトバランスなど,携帯の画面にのめり込むように学んだ.

気付けば夕方.数時間で学んだ穴だらけの知識で写真を撮りに行った.不精な僕が1,2時間懐かしい道を歩けた.カメラにはそのような原動力や人を変えてしまう力があると今思う.

カメラを友達に貸せば僕も友達も笑顔になるし,写真を撮ればまた笑顔になる.笑顔の写真を撮ればずっと残る.

僕は不思議なことに気がついた.

5,6年前 高校生の頃撮った写真や,それこそ一眼レフを入手して撮った写真.それを見ればその写真を撮った数コマ前,数コマ後のエピソードが蘇るのだ.

僕は記憶力が非常に乏しく,友達に「鶏だ」とからかわれることもある.それでもなぜか写真についての記憶は鮮明に残っている.

これは不思議だと思った.

みんなはどのような目的で写真を撮っているのだろうか.子供の成長を記録するためや旅行でこんな場所に行ったと後から見て楽しむため.なんらかのSNSにアップするため.目的は色々だろう.しかしシャッターを切った瞬間あなたの脳には記憶として残る.記録のために写真を撮っていたとしても.そのとき何を考えて撮ったのか,なぜ撮ろうと思ったのか,赤ちゃんが初めて立った,あいつが川に飛び込んでさ,この写真のアサガオは親友の実家に咲いてたんだ.

なんらかの記憶と結び付けられて存在する

記憶とともに存在する

写真は「記録」ではなく、「記憶」なのだ



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