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学校の責任?家庭の責任?愛着の話

このところ、そこまで考えなくても…過保護と言われるような保護者がいたかと思えば、もうちょっと関わってよっていう育児放棄とまではいかないまでも関わりの薄い保護者もいて、児童生徒に関わる環境は難しくなってきているなと感じることが多くなってきたように感じます。


「子どもは幾つになっても甘えるもの」



幾つになっても甘えたいものです。私自身は中学生を教えているので、特に思春期と言われたり、反抗期だったりの子どもをみていても、甘えたの子たちがたくさんいるように思います。それ自体は悪いことではなく、むしろ人間なので甘えない人の方が心配になることもあります。

「正しく甘える」

正しくというと、正解があるように感じますが、正解があるわけではありません。ただ、間違った甘える行為というものは中学生を見ているとありそうです。「甘える」という行為は、「誰に」や「何に」というものが、つきますが、それを見誤ると本質を見失ってしまいます。例えば、提出期限のある書類を「忘れたので期限を伸ばしてほしい」という主張の場合は、伸ばしてくれるだろうと、「先方に」甘えることがあります。学校なら先生が対象になるだろうし、学校で「伸ばしてほしい」という礼儀正しい奴はいないし、そういうやつは、期限を守る傾向にあると・・。また、宿題をしなければいけないというときにゲームばかりしていたり、何をするわけでもないのにやらなかったりすると、この場合は「親に」や「先生に」許してもらうための甘えだけでなく、しんどい勉強をしなくても許される「自分に」甘えているのだろう。一番、学校で先生たちが許してはいけないと思っている行為が「自分に」甘える行為なのではないだろうかと感じることがあるし、実際にそう意識している部分もある。この「自分に」甘える行為は自覚しづらいので、周りが律してやらねば、気づかないことが多いし、そのため先生がせねば、と感じている人が多いと思う。さらに保護者もそれを望んでいることが多いのではないだろうか。

「中学生から始める、初めての甘え」

本のタイトルにありそうな見出しだが、その通りに受け止めていただきたい。中学生になってから始めて何かに甘えるといった行為を始める生徒がいる。
幼児教育が専門でもないければ、保育士や幼稚園の資格があるわけではないが、幼少期の育ち方は、中学生の発育発達にもとてつもないほど影響があると感じる。それほど、その時期は大事だと思う。中学1年の初めの学年懇談会で必ず話すことがある。
生まれたばかりの時は「肌を離さず」
歩けるようになる頃には「手を離さず」
自分でできるようになると「目を離さず」
考えて動けるようになると「心を離さず」

子どもの隣にいる大人の理想的な心構えというか、目指したい像を話します。心離さないようにするために、保護者と学校と協力しましょうね。という話をするのですが、今回は、その理想論ではなく、現実的な話に言及しようと思います。

ここからは仮説です。でも結構納得できると思います。

2022年の時点では、人間はすべからく母親から生まれてきています。医療の大革命が起こらない限り、これは変わらないでしょう。人間は生まれた時は快・不快の感情表現しかありませんが、その頃から人間は甘えるという行為は始まります。そこからいつになっても人間は甘えるものだと思いますが、生まれたあの頃と同じように甘えている人は多くないと思いますし、正しい甘え方が身に付いていないと、問題も出てきます。その辺りは後述します。

「子どもの甘える総量は決まっている」

生まれてから、どれだけ特定の人と過ごす時間(=甘える量)が必要かは決まっている。ただ、発育発達段階に応じて、肌を離さずなのか、手を離さずなのかは変わってきますが、段階を経て段々と必要な甘える量を獲得していきます。甘える量を獲得していって最終的に「心を離さず」に子ども自身が自立へと向かっていきます。

その時期を逃してしまうと・・・
適切な段階で適切な時間をかけられないと、歪みが生まれてきます。冒頭に書きましたが、始めて誰かに甘えるのが中学生だった場合、本当は赤ちゃんの時に「肌を離さず」関わる時間をかけないといけなかったのに、時間がかけられない状況がある場合、中学生では、「肌を離さず」って厳しいですよね。先生との距離感が異常に近い場合は、ひょっとしたら幼少期につまずきがあるのかもしれません。
じゃあどうするの?って言われると、特効薬はないのですが、行動の背景を知るだけでアプローチの仕方が変わります。
反対に、適切な関わりをされている子どもは、心的安心を得ていろんなことにチャレンジできることが多いのではないかと思います。
ただ、全ての先生と保護者と共有したいことは、中学生になると問題行動は全ての生徒にとって可能性のある話なんですが、問題行動が悪ではない。ということ。
確かに、幼少期に時間をかければかけるほど、適正に順序よく自立していくかもしれませんが、順序が違ったって自立しないことはありません。要因を知ることで、見立てができる。ここが大切なのかなと思います。誰が悪いということはありません。


小学校、中学校で心理的不安定な児童生徒がいる場合は、まずその背景を考察する。その中で、彼ら彼女らの安全ベース(安全基地)がどこにあるのかを探る。なければ、誰がそれを担うのか、担うためにどうするのか。を考える必要があります。
例えば、友だち関係で小学校ではずっと上手くいかなかった子どもは中学校でも友だちと呼べる子が全くいないってことがよくあります。その時に、「関わり方が悪いから友だちがいないんだ」とするのではなく、まず、先生もしくはそれに代わる人、安全ベースを作るところから始めるとうまくいくパターンもあります。簡単に文章にしましたが、文章のように簡単にはいきません。3年間の中で解決しないかもしれないし、すぐにうまくいくかもしれません。ですが、今の対応の先に何があるかを予測、想定しながらするのとしないのとでは、計画性も変わってくるし、心理的負担も大きく変わってきます。目標のあるなしで、思い通りの指導にならなくても、イライラしたりカッとしたりすることが減るのであれば、目標や道筋は立てるべきです。それがない場合に感情的になってしまったり、負担感につながるケースが往々にしてあるのではないかと思います。

タイトル回収

学校の責任か家庭の責任かと書きましたが、どっちということはないです。逆に、学校だけの責任なことは絶対ないし、家庭だけの責任なんてことはありません。責任を押し付けあっても仕方ないし、そもそも社会生活の中に出会う人は何千、何万人といます。マインドコントロールでもない限り、1人や2人の人間が人生をどうのことのってできるだけの力はないし、それ故に一か所の責任もありません。要は、みんなで見るし、みんなで考えるってことが必要かなと思います。その中で、今の現状を把握するためになにが背景にあるのかを考えることは大切にしたいですね。

長くなりましたが、面白かったらスキ、フォローしてみてください。
では。

ciao.

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