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かよんさんとコラボ「迷い子」/「伝説の息づく町」

 やわらかくて素敵な絵を描いてらっしゃるかよんさん。もしゃもしゃのもしゃーな絵を多くお描きになるかよんさんが時々Upしてくださる、もしゃもしゃ動物ではない絵からインスピレーションを受け、小説を書いてみました!

 地方の山間部にある小さな町の、民話を下敷きにしたお話ふうです。なにぶん初めての小説ですので、至らないところも多々あると思いますが、どうぞお手柔らかに。(-人-)ナムナム ※20000文字以上あります




伝説が息づく町


『伝説が息づく町』

 そんな謳い文句の看板が、高速道路から一瞬だけ見える。なんの伝説か、続く文言なんて目で追えるはずもなさそうな、小さな看板。

 私の祖父母が住む町。社会人になって都会に出たら、訪れるのはお盆とお正月だけになってしまった田舎の町。自然豊かな水郷で、美味しいお水とお米、清流と川魚料理がささやかな名物なだけの、ひなびた町。あ、あと水力発電もあった。

 お盆に帰省した私を待っていたのは、さらに近くなったんじゃないかと思えるほどの熱い熱い太陽と、耳が麻痺するほどのセミ、カエル、ヒヨドリの合唱。それにおばあちゃん、おじいちゃんのくしゃくしゃの笑顔。狭いけど空調の効いた静かなアパートと、広々してるけどいまだに蚊帳を吊って蚊取り線香を焚き、窓やふすまを開け放して寝るような古民家の一部屋と、どちらがいいかは、まあ、置いておこう。

 少し不思議なことが起こったからだ。

 冷え冷え半割りのスイカを、他のいとこたちを差し置いて、ぜいたくにもひとりじめにしてスプーンでほじって食べていたとき、縁側に置いておいたスマートフォンから、ぴちょん、と通知音が鳴った。お気に入りの水滴音。でも、開いてみたら通知のアイコンがない。あれ?と思って、メールやSNSやnoteを開いて確認してみたけど、何も通知されていない。まあいいや、このスマホ、時々へんな音で鳴くし。と考えて、私はスイカの掘削に戻った。

 食べたあとお昼寝してたら、もう夕方。空模様が怪しくなりはじめた。空を覆うようにむくむくと色の濃い雲が広がってゆき、かすかに雷鳴のような音も聞こえる。こりゃ夕立かな。台所からおばあちゃんが、二階の雨戸を閉めてっちぇ、と呼びかけている。はーい。
 ぎしし、ぎしし、階段を鳴らして二階に上がると、もう雨は降りはじめていた。湿った地面から立ち昇る、昼間のうだるような暑さの匂いを溶かしたような空気をすんすんして、私は雨戸を閉めて回った。地元の郷土史家でもあるおじいちゃんが住むこの家は、二人暮しには広すぎると思ってはいたけど、やっぱり雨戸を全部閉めるだけでもひと苦労だ。かといって閉めっぱなしにすると淀みとか澱みたいなものが溜まって、妖怪とか住み着きそうだけど。たいへんだよね。

 あ、やば。真っ暗になっちゃう。スマホを取り出して簡易ライトをつけようとする。
 開いた瞬間、画面の上から降りてくる注意表示。
『電池残量が少なくなっています。
『バッテリー残量が1%です。
『ライトを終了します。

「……えっ?」


────────


 おかしい。どう考えてもおかしい。
 降り出した雨が屋根を叩く音を聞きながら、古めかしい黄ばんだプラスチックの半透明の傘をつけられた、二重のリング型蛍光灯の光の下、私は目を細めて文机の上のスマートフォンに疑いのまなざしを向けていた。あのあと電源はすぐに落ちてしまい、画面は真っ暗だ。
 昼間スイカを食べてたときはバッテリーは確実に80%以上あった。それからお昼寝したから、スマホには触ってもいない。バックグラウンドで稼働しているアプリでもあったのか。いや、いつものようにアプリはすぐに終了させたはずだし、稼働しているからといってバッテリーの8割近くをたかが3,4時間でくってしまうようなアプリなんか入れていない。なんで…?

 いったん80%まで充電して、もう一度放置してみよう。ひょっとしたら「なんちゃって80%」で、実は内部的には風前の灯だったのかもしれないし。

 そう思って手を伸ばしかけた私の目に、電源の落ちたスマホの真っ暗な画面になにかが横切るのが見えた。なにかの反射?と、周りを見回してみる。動くものはなにも無い。古い割にオカルティックなものには縁のなかったこの家にもとうとう怪異が住み着いたのかと、ドキドキ、ワクワクする気持ちを抑え、あたりに用心しながら私はスマホを手に取った。

「ひゃっ!??」

 すっとんきょうな声をあげてしまった…!

 なにか、私の小指くらいのなにかが──トカゲみたいな動きをして、私の手によじ登ろうとしてきたのだ。スマートフォンの中から。池から陸に上がろうとするワニかなにかみたいに。
「驚」「正体不明」「怖」「理解不能」「本物の感触」「痒」「意外とかわいい」そんな感情やら言葉やらが頭の中を一瞬のうちに飛び交い、私はその……「生き物」というか「現象」というか、とにかく「それ」の正体を突き止めようと、顔を近づけ、目を凝らしてみた。ところが、見つめれば見つめるほど「それ」の輪郭はぼやけていくようで、それでいて目をそらして視界の端でとらえるようにすると、その特徴のある顔にはまっている黒いガラス玉のような目や、ふたつの小さなとさかみたいものまではっきり見えるような感覚に陥るのだった。なおも──生き物だったら咬まれるかもしれない危険があることを考えもしないで──顔を近づけてゆくと「それ」はとても書き表せないような音……声?で鳴き、私の手の上をぴたぴたとあとずさって、スマートフォンの中に消えた。消えたように見えた。スマホをひっくり返してみる。文机の上を見る。畳の上を這いずってはいないかと見渡してみる。両手で自分の顔をひっぱたいたりつねったりしてみる。すると、さっき聞いた、どうにも表現できない音だか声だかが、また聞こえてきた。今度はなんとなく疑問のニュアンスを持っているように。見ると、文机の上のスマホの中から、「それ」が身を乗り出して、小さな頭をかしげるようにしてこちらを不思議そうに見ていたのだった。


────────


 スマホの中に出入りする生き物(のようなもの)──

 およそ信じられない事態を目の当たりにして、これは自分の常識や経験の出る幕は無いと考えた私は、すぐさま帰省している親族全員を集めて意見を聞くことにした。おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、従兄、従姉、従妹。叔父さんの奥さんはお買いものに出かけている。

 みんな突然の招集で何ごとかという顔をしている。暑さで自分の頭がいかれたのではという不安もあるにはあったけど、今しがた起こったことを話すうちに、ちゃぶだいの上に置いた件のスマートフォンから、私はこれで3回目となる名状しがたい音または声(これからこの音声を奇音とよぶことにしよう)がして、一同の度肝を抜いた。

 全員の目がスマホに注がれる中、真っ暗な画面の中を何かが動くのが見えた。細い体のなにか……短めのアナゴに手足がついたような何かが、電源の落ちたスマホの画面の中を泳ぐように動き回る何かが、確かにいる。しかも、その動きは、あたかもスマホ画面がガラスのフタや観察窓のようなものに過ぎず、その下に広大な池もしくは水槽のごときものが広がっているような感覚を抱かせるのだった。

 おばあちゃんと従姉は抱き合って遠巻きにスマホを気味悪そうに眺め、従兄は食べかけのアイスキャンディーを口から取り落としてシャツを汚し、叔父さんは素早く動いてなぜかクラウチングスタートみたいな姿勢を取っている。従妹はのんびりしすぎる田舎の生活に刺激物を見つけたと思ったのか、目を輝かせて「ちょ!マ?ガチ?!」と叫びながら自分のスマホを取り出している。きっと動画でも撮るつもりなんだろう。冷静なのはおじいちゃんだけで、無言で立ち上がったかと思うと、私が名前を知らない道具──食卓専用の蚊帳みたいなやつ──を台所から持ってきて、それを私のスマホの上にそっと置いた。そして重々しく口を開いた。

「気づいたのはその時か。雨戸を閉めていた時か?」

 私は、気づいたのは雨戸を全部閉めた後だと言った。

「雨戸を閉めていたときに、雨は降っていたか。その時にスマホはどこにあった?」

 雨が降ってきたのは、雨戸を閉める前。スマホはずっと私のポケットの中にあった。

 おじいちゃんはそれきり私に質問することはなく、なにかぶつぶつ言いながら立ち上がって、自分の部屋へ引っ込んでしまった。おじいちゃんはこのあたりの伝承保存会の会員でもあるし、民間伝承の中から手がかりを見つけるつもりなのだろうか。たしかに、現代科学で説明のつかない事態を目の当たりにしたとあっては、昔話というファンタジー……この町で言うところの『息づく伝説』の中に答えを求めるほうが利口かもしれないけどさ。

 と、居間から顔だけ出しておじいちゃんの行方を見送っていた私の背後でまた奇音がし、従妹が、また鳴いた!と言ってあわてて自分の口に人差し指をあてていた。動画に自分の声でも入りこんでしまったのだろう。
 それにしてもどうしたことだろう、今度は鳴き声から哀切のようなものを感じる。並み居る親族たちも同じ気持ちだったと見え、いくぶん気味の悪さを克服したのか、従姉が、なんだかひもじそうね、と言えば、ハラがすいてるんじゃあないか?と従兄がアイスの残りをスマホに向かって突きつけ、そんなんじゃダメだよ、とムービー撮影を続けながら従妹が異議を唱える。叔父さんはスマホで何かを調べているらしかったけど、検索して出てくるような情報ではたして役に立つかどうか。

「ねえ、充電してみようよ!」

 従妹が身を乗り出して迫ってきた。充電。なるほど、スマホの中にいる=電気を食べる、と考えれば、充電する=エサ?を与える、という図式が成り立つかもしれない。……いやいやいや、待て待て待て。電気を食べるってなんね?ポケットなモンスターか。成長すると100万ボルトとか出すんか?それとも、……ああ、わかった!これは新手のアプリだ!電源が落ちていても動作するスクリーンセーバーかなにかだ!ときどき画面から出てきて人の手に乗る小動物を生成するアプリだ!

 なーんてことは考えるだけムダか。理解の範疇を超えた事態なのに私は何を考えているんだ。全てが未知なら、ひとつひとつ試して確かめるしかない。従妹の提案にうなずき、食卓用のレースのテントみたいな道具を取り除け、私は充電ケーブルをスマホに差し込んでみた。充電中を示す赤いランプがつく。けれど残りバッテリーを示すパーセンテージ表示は出ない。画面は真っ暗なままだ。

 と思ったら、出し抜けにひときわ高い奇音がスマホから聞こえてきた!!今度のこれは……これは、歓び?ごはんにありついて大喜びなの?やっぱり電気をエサにしているの?

 今やみんなが興味津々で私のスマホを見つめている。最後まで怖がっていたおばあちゃんですら、叔父さんの肩越しに顔を出しておそるおそる眺めている。叔父さんはいつでも逃げられるように下半身だけを逆方向に向けながら妙に鼻の下を伸ばしてのぞきこんでいるし、従姉は今やすっかり珍種のペットを見るような目で見ている。
 ……スマホ画面が明るくなってきた!電源をONにしたわけではない、「それ」が以前よりもはっきりした輪郭を取っているのか、電気の輝きを取り込んだのか、線刻のような体全体が明るくなってきているのだ。夢中で撮影している従妹の顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。嬉しそうに画面の中を泳ぎ回る「それ」に変化が表れてきたのだ。いや、それまでわからなかった細部が少しはっきりしてきたと言ったほうが正確だろうか。正しい観察の仕方を知っている私はあえて目をそらして視界の端で観察した。トカゲみたいにつるつるだと思っていた身体には、頭の後ろから尻尾にかけて、ヒレまたはトゲみたいなものがはえている。不自然なほど奇妙に前肢と後肢が離れたヤモリのような足は、小さいながらもちゃんと爪がある。そして頭には、小さなとさかのような肉質の突起が2つあり、やや尖った口の先端近くには、ヒコヒコと動く触覚……いや、ヒゲみたいなものが……

 ダダダっと廊下を走る音が聞こえた。見上げると、おじいちゃんが──おそらく充電開始と同時に呼びに行った従兄とともに──畏怖と驚愕の表情を顔に貼りつけ、ノートパソコンを片手に突っ立っていた。ていうかおじいちゃん、そこは古文書とかじゃないんだ。


────────


「タツノオトシゴ?」
 目を丸くして訊き返す私に、おじいちゃんは目を細めた。
「何か、別のものを想像しとるだろう。龍の落とし子、文字通りリュウが天から落としてしまった子供のことだ。ここいらに伝わる昔話だ。昔、よく話して聞かせてやったじゃないか。おぼえとらんのか」
 うーん、正直いって覚えてない。子供の頃はお彼岸とか夏休みとか、今よりはこの家に来ていたけど、たぶんほとんど聞かずに寝てたんだと思う。ここらへんに龍の伝説があるのもなんとなくしか知らない。 
 おじいちゃんいわく、ずいぶん昔からこのあたりの地には、天候を司る龍神がいたと。その龍は恵みの雨をもたらしてもくれるし、また嵐を起こして雷による山火事や大雨による洪水や土砂崩れなどの災害を引き起こしたりもするので、今でも里人から畏怖の念をもって祀られているんだそうな。 
 猛烈な自然現象を龍という想像上の生き物になぞらえた伝説は日本各地にある。そしてここも、海からの湿った空気を高い山が受け止めてるような地形なので、雨雲や雷雲ができやすい。上流には今はダム湖となった深い湖もあり、いわゆる龍の伝説の土台になる要素はそろっている。

 でも、よそとは違う話がひとつある。それが、龍の落とし子の話なんだって。

「その昔、」
 おじいちゃんはノートPCをカチカチやりながら話し始めた。
「天に住まう龍神が、その一粒種を地上に落としてしまったという。嘆き悲しんだ龍神は、それまでに見たことも聞いたこともないような大雨を長きに渡って降らせ続け、ついには村の上流にあった湖から溢れ出た水が鉄砲水となって下流に押し寄せ、畑も家も人もほとんど全てを押し流してしまったという。実際にその時の被害の様子を書き残した書物──領主への報告書が残っておる」
 おじいちゃんは古文書らしき画像を2枚出したPC画面を私たちの方に向けた。どちらも私には読むのがむずかしかったけど、片方には日付らしきものと漢数字がいっぱい書き込まれていたので、たぶんこちらが被害報告の方なんだろう。もう1枚を指差しながらおじいちゃんは続けた。
「こっちの書き付けは、村の有力者、おそらくは名主や庄屋に相当する者の家に伝わっていたものだ。代々の記録というか日記のようなものだったらしい。日記と言っても毎日つけていたわけではなく、季節の節目や、なにか特別に記録が必要になった時につけていたようだな。ここには、水害の起きる少し前の日付で、珍しい動物がいずこからともなく迷い込んできたので捕まえようとした、とある」
 私を含めて顔が六つ、パソコン画面の前でひしめきあう。
 こちらは絵図のようもので、文章の他にも簡単な線画のイラストが載せられていた。人物が何人か、アンリ・ルソーの絵を思わせる、面白くもダイナミックな動きで一匹の動物を捕まえようとしている。珍しい動物とは、これのことだろうか。でも、これはまるで……

「犬じゃね?」

 従兄がみんなの意見を代表して言ってくれた。絵に描かれたその動物は、ぴんと斜めに立った耳を持ち、しなやかな身体には短い脚、長く先のやや尖った鼻の先にヒゲを表す細い線が2本引かれている。私の目には、胴体をさらに引き伸ばしたコーギーみたいに見える。
 でも待て、よく見ろ、と、頭の中で疑い深い自分が結論を急ぐ思考の肩を後ろからつかむ。よく見るんだ。違和感がある。その違和感の正体は……

 尻尾。尻尾の太さだ。

 犬なら、後ろ脚の後ろに伸びる尻尾は、だいたい細くなるはずだ。きつねやたぬきであっても、付け根でいったん細くなって、それから太くなっていくはず。ところが、絵図の中の動物の尻尾は、胴体とほぼ同じくらいの太さのまま後ろ脚の後ろに突き出していて、徐々に細くなっていってる。まるで犬と爬虫類のキメラみたいだ。

「さて、な。犬、とはどこにも記されておらん。現代の我々の目には犬のように見えても、たまたまそのように解釈できるからという理由に過ぎないのかもしれんし、それにもし犬に似た生物だったら、当時でもそのように書くだろう」
「続く記述によると、捕まえることはついにできなんだそうだ。ただし、この謎の動物はしばらく里の中を徘徊していたらしい。人家を覗いたり、土間の水がめから水を飲んだり、川の橋げたに巻き付いたり、溜池で泳いだりしていた。大雨が降り続くようになると濁流になった川に飛び込んでは何事もなかったかのように上がってきたりした、とある。人に危害を加えるわけでもなく、さりとて捕まえることもできないので放置されていたようだな」
「鉄砲水が全てを押し流して村に壊滅的な打撃を与えた後、この未知の動物は姿を消していた。他のものと一緒に流されたと見るのが妥当だが、生き残った村人はそうは考えなかった。今まで誰も見たことがない珍しい姿をしていたこと、水に関する場所で多く目撃されたこと、何より濁流を苦もなく泳いで上流に向かおうとしていたことなどから、誰言うともなく、あれは龍だ、龍の落とし子だったのだとささやき交わすようになったのだ」
「謎の生き物──龍の落とし子がどこに行ったのかは記録されていない。もちろん、行方を追うどころではなかったろうし、災厄の予兆のように現れた存在を気味悪がったであろうことは想像に難くない。この龍の落とし子に関する言い伝えは、高台にあって難を逃れた有力者の家で、絵図を始めとする書物と共に語り継がれた。この地の民話や絵本になっているものは、全てこの伝説を多かれ少なかれ脚色したものだと言っていいだろう」

 みんなの目が私のスマートフォンに、いや、その中にいるであろう超自然的な存在に注がれる。災害の少し前に現れた「龍の落とし子」と呼ばれる謎の生き物……特徴のある容姿……降り続く豪雨と、その後の水害……。私のスマホの中にいるあれの尻尾は、はたしてどうだったか。強くなりゆく雨音と、お買い物から帰ってきた義叔母のかしましい声を耳にしながら、私はそこはかとない不安が胸の内に広がっていくのを感じていた。


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 夕食の時間になった。ごはんものどを通らない、とまではいかないけど、いつもみたいにわいわいと騒ぎながら食べる雰囲気ではなかった。私たちの日常に突然現れた、常識外の存在。「龍の落とし子」と呼ばれる、古い文献に記された、水害の前触れとも取れる、これまた常識外れの存在。夕立にしては長い雨。2つを結びつける要素は少ないけれど、きっと誰もがこの2つは同じものなんじゃないか?という疑念を抱いていたに違いない。少なくともおじいちゃんとおばあちゃんは本気でそう思っているだろう。この家は川から近く、しかも平坦な土地に建っている。昨今の河川氾濫の例を見るに、川があふれたら床上浸水ぐらいでは済まないだろう。数十年前には上流の湖をダム湖にし、それ以来目立った水害はないものの、もしダムの貯水力を超える雨量の雨が降り続いたら、もちろん緊急放流ということになり、結局は洪水になる。油断はできない。
 けど、それよりも何よりも、実は私の心配事は、私のスマホに住みついてしまった、スーパーナチュラルなこの子そのものにあった。電気を食べるというか好むのは分かったので、コンセントそのものに近づけて様子を見たのだけれど、ほんの少しだけ画面から姿を消して、すぐまた現れるを繰り返すだけで、消えたりはしなかった。電線を伝ってどこかに行ってくれればいい、と無責任に考えていた私の目論見は数秒で崩れ去った。従兄は、あくまで電気をエネルギーにしているだけで、自分を電気にして自由に移動することはできないんじゃあないか、と言ったけど、あながち間違いじゃないのかもしれない。とにかく、この子がいる間は、スマホに充電することができない。通話もできないし、メールもSNSも見れないし、ゲームもできない。なんとかして出ていってもらわないと。

 夕食後、おじいちゃんは伝承保存会の面々からの返信メールを熟読し、それにまた返信をするという作業を再開した。おばあちゃんは叔父さんと義叔母さんといっしょにお茶を飲みながら、信じられないねぇ、なんて言ってる。私といとこたちは別室に行き、とりあえずこの子に名前をつけよう、ということになった。

「タツゴロウはどーだ?」従兄の案。却下。イチローからシローまではどうした。
「ティアマット!バハムート!ヴリトラ!ジャバウォック!ニーズヘグ!」従妹の案。中二まっしぐらだね?せめてアジアのにしなよ。却下。
「タッちゃん、なら、どう?」従姉の案。うーん、すごく安直。だけどそれがイイ!採用!

 私のスマホの中に住む、龍の落とし子疑惑の子は、「タッちゃん」という名前になった。

 その夜はなかなか寝付けなかった。もちろん異常な体験をしたためもあるけど、ざーざーと降り続く雨音がどうしても不安をあおるし、なによりタッちゃんが落ち着きなく這い回る感覚がずっと続いていたからだ。スマホは充電器につなぎっぱなしなので、ひもじいことはないはず。なのに、タッちゃんはときおり心細そうな奇音を出して這い回っては部屋の天井を見上げていた。ようやく睡魔が興奮に打ち勝った時、私は夢うつつに思った。タッちゃん、本当は天井の向こうを見ているの……?お前はやっぱり天から落ちてきて、あのお空に帰りたいの……?


────────


 翌朝、目を覚ました私が奇声をあげて飛び起きるはめになったのは、ちゃんとした理由があったことをことわっておかなければならない。
 タッちゃんが大きくなっていたのだ。
 昨夜まで手乗りサイズだった生き物が、朝になったら中型犬くらいの大きさになっているのを見たら、誰だって驚くはずだ。そして見逃せないのは、それが単なる巨大化とかじゃないこと。色の無い線刻のような体には違いないけど、頭のふたつのとさかのようなものはぴんと後ろに立った耳のようになり、やや尖った顔は前後に伸びて犬感の増したものになり、胴体はさらに伸びてもう少ししたらとぐろを巻けるんじゃないかというまでになって、尻尾もより太く長くなった。
 間違いなく成長している。やっぱり電気をエネルギーにしているんだ。しかももはや完全にスマホの中から出て実体化している。ように見える。あいかわらず目で追うと姿は不明瞭になるけど、目を反らしていると光の線のような体が細部まではっきり見えるのがわかる。
 タッちゃんは長い胴体を揺らしながら畳の上をぺたぺた歩いていたけど、私が起きたのに気づいてこちらに寄ってきた。一瞬、感電するかも、という危惧が頭をよぎったけど、舌をぺろっと出してくりくりした目を好奇心いっぱいに私に向け、前脚を私の膝の上にかけてくる様子は、やっぱりどこか犬を思わせる愛嬌があって、私は困惑ぎみの笑みを浮かべながらおずおずと手を差し出してみた。タッちゃんは頭をぐりぐりと押し付けてきた。どうやら警戒されたり、恐れられたりはしていないらしい。同時に私は、タッちゃんの耳のような頭の突起の手触りがずいぶんと堅いことを知った。

 雨は弱まる様子を見せない。それどころか激しさを増し、これはもう豪雨と言ってもいい。朝食もそこそこに、車のタイヤが道の泥を跳ね上げる音が数回聞こえ、数人の訪問者がやってきた。みんなおじいちゃんと同じくらいの歳に見える。出迎えたおじいちゃんがしゃべっている内容からすると、どうやら町の伝承保存会のお仲間さんたちらしい。これからどうするかの相談をしに来たのかと思っていたら、どうも結論自体は出ているようだ。早い話が、町に厄災を呼ぶ前に還ってもらいたい、というのが全会一致の意見のようで、これには正直なところ少し意外な感じがした。新種の生命体発見だということで、マスコミに情報を売ってセンセーショナルな記事にしようとか、どこかはわからないけど研究機関に来てもらって研究対象にしよう、とかいうことを言い出す人がひとりやふたりはいると思っていたのに。田舎の保守的気質、もしくは土地に染みついた信仰にも似た伝説の真実味が、老人世代を動かしているに違いなかった。

 私は、保存会の面々を奥の座敷に案内した。そこは雨戸を閉めたままにしてあり、暗い中に私のスマホがぽつんとひとつ置いてある(もちろん充電器は差しっぱだ)。そうやすやすとスマホの外に出て実体を見せてくれるかどうかはわからないけど、一応、事前におじいちゃんにはタッちゃんが大きくなっていることを伝えておいた。おじいちゃんは、うーむ、とうなったきり、口を開くことはなかった。ただ眉根を寄せたその顔には焦りとも畏れともつかない表情が浮かんでいた。
 奥座敷は、この古民家の中でもいちばん格式が高い場所らしい。閉じられたふすまの前まで来ると、私は下がっているようにと身振りで促された。おじいちゃんを含め、一同が部屋の方を向いて廊下にひざまづき、両手をついて頭を床板に擦りつけんばかりに下げた。おじいちゃんが朗々たる声でなにか呪文のようなものを唱えはじめた!……と思ったけど、よく聞いてみたら私にもわかる言葉がいくつかあって「ご降臨…」とか「天地天命にて…」とか言っては頭を廊下の床にこすりつけているから、これはたぶん歓迎の挨拶なのだろう。これはもう、科学や理論の入る余地の無い、宗教とか、信仰とか、民話神話の世界の流儀だ。ここに口をはさむことは許されないだろう。
でも、その子、スマホから電気食ってるけどね。

「なんだか、大変なことになっちゃったわね」

 従姉がささやく。廊下の角の柱に隠れている私の隣に、いつの間にかいとこたちが来ていて、私と同じように様子をうかがっていた。私は身をひるがえしておじいちゃんたちから完全に見えない場所に一歩進み、いったいどうやってこの子を──タッちゃんを、在るべき場所に還すのだろうか、ということをいとこたちと話した。
「還す……ねえ。そもそもそんなことが人間にできるのかしら。お母さんの龍は、助けに降りてこないのかしらねえ」
「きっとアレだぜ。成体の龍はきっとものすごいエネルギーをまとっているから、直接地上に降りるとそれだけで半端ねーダメージを辺り一面に与えるんだぜ。もし子供を落としちまったら、自力で上がってくるのを待つか、それか地上のダメージを無視して強行突破的に?降りてくるんだろうな」
「でもその子、電気を食べて大きくなってるんでしょ?だったら電気を食べさせ続ければ、いつか大人になって帰って行くんじゃないの?」
 私もその線は考えた。このまま電気を与え続ければ、成体になってここを出ていくんじゃないかって。でも、それまでにどれくらいかかるの?昔の文献で、龍の落とし子とされるのものが発見されてから、村を襲った鉄砲水の襲来まで、どれくらいの間隔があったのだろう。今も雨は非常な勢いで降り続いている。朝の天気予報だと、日本列島の南の海上に発達した低気圧があり、本州の雨雲前線に暖かく湿った空気を送り続けて線状降水帯を形成しつつあるそうだけど、はたしてこれは偶然なんだろうか?大自然の猛威に、たまたま私たちの非日常が重なっただけなんだろうか?それとも……

 それまで薄暗かった勝手口のほうが、ぱぱっと明るくなった。

 次の瞬間、家全体を揺るがすような地響きと、大気をちぎり裂くような大音響が私たちを襲った!家じゅうのガラス窓がびりびりと震え、私たちいとこ団はそろってひっくり返り、めいめい体のどこかを床板にしこたま打ち付けてしまった。全員、痛みで立ち上がることもできないまま、うめき声を上げている。なに…!?落雷!?だとしたらかなり近い。光ってからすぐに音がした。そうだ、おじいちゃん!おばあちゃん!お年寄りたちは?!他の家族は?!あわてておじいちゃんたちが整列していたほうを覗くと、彼らはあいかわらず平伏したまま、顔だけ上げて驚愕の表情を浮かべている。偶然にも、古式ゆかしい祈祷スタイルが、転倒から免れさせてくれたのだろう。でも、問題はそこじゃなかった。部屋の中では、閉めていたはずの雨戸が開け放たれ、雨風が吹き込んでいる。私は、庭の中空に浮かぶ光の線の輪郭を見た。いつか中華街で見た、操り手が何人もついて舞う龍の舞のように、ぐるぐると庭の上を飛び回る長い体。ときおり光る雲と、大気を震わせる音に向かって、タッちゃんは一生懸命鳴いていた。物悲しくも必死なそれは、私の心の深いところにぐっと刺さった。

 結局、家族は全員無事だった。ややあって、外の様子を見に行った従兄が帰ってき、顔面を蒼白にしながら、雷が落ちた、すぐ近くだ、とわなないた。
「向かいの畑に落ちたみたいだ。100メートルも離れてねえ。なんにも無いあんなトコに落ちるなんて、普通じゃあねーぜ!」
 雷は高いところに落ちると言われているけど、必ずしもそうじゃない。まったく何もない平地に落ちることだってある。けれど、今は奔放な想像がみんなの頭の中から理性を追い出してしまっているように見える。
 天候を司る龍神。その落とし子。その落とし子を飼っている人間。その人間の近くに落ちた雷。案の定、伝承保存会の老人たちは、龍の子を囲っているのは不敬にあたる、龍神の怒りを招いたのだ、などと口々に言い始めた。その推論が当たっているかどうかはわからない。もとより証明しようもない。
 ただ、私もファンタジーな推論を言わせてもらうなら、タッちゃんが電気を食べる以上、さっきのは親の龍が子に与えた食事だった可能性もある。もしくは、タッちゃんのあのあわてふためきようを見ると、親が子を探すために大声を出すようなものだったのかもしれない。それもこれも、本当に「親の龍」という存在がいれば、の話で、当て推量もいいとこだけど。
 今は雷雲の本体は通り過ぎてしまい、粗密が目視でわかる程度の強雨が道路のアスファルトを叩き、流れる雨水が土の地面に小さな流れをいたるところに作っている。私は、何をするべきなのか。


────────


 午後に入って、私は自分の考えをおじいちゃんに話した。保存会の面々は、祟りや神罰を恐れているのか、あのあと早々に退散してしまった。この件についてはおじいちゃんの家で責任をもって対処するように、という言葉を残して。そんな無責任な!と言いたいところだけど、誰にどんな責任があるかなんてわかったものじゃないし、もちろん私たちにとってもそうだ。でも、タッちゃんはきっと天に還りたがっている。そんな気がする。親にあたる存在がいるにしても、そうでないにしても。それに、少なくともタッちゃんは地上に存在するには──ヒトの間で在るには異質すぎる。このまま留めおいても、幸せにはなれないんじゃないだろうか。少なくともタッちゃんを不幸せにしない責任は、私たちにある。

 だから、私は自分の考えを話した。タッちゃんを天に還したい、と。おじいちゃんだけじゃなく、家族みんなの前で。おじいちゃんも、おばあちゃんも、叔父さんと夫婦も納得してくれた。従妹だけはもっとタッちゃんと遊びたい、というようなことを言っていたけど、実のところすでにこの地域には大雨洪水警報が出て避難を呼びかけられているので、遊んでいる場合ではない。避難も、タッちゃん返還も、もう時間の猶予はないんだ。 

 私の発案によって、川の上流、ダム湖の下までタッちゃんを連れて行くことにした。そこには水力発電所がある。電気を食べて大きくなるなら、より大きな電力をふんだんに食べさせてあげれば、成長が早まる可能性はある。成長が早まれば、天へ昇る力も早くに発現するんじゃないか。さっき、タッちゃんは確かに浮遊していた。空を飛ぶ力があるということだ。それに、古文書には、濁流を上流へ向かって泳ごうとした、という記述もある。つまり、より高いところへ行こうとしたんじゃないか。その線を考えても、山にあるダム湖に向かうのは理にかなっているように思われた。なお、これは立派な盗電行為だけど、どこに許可を取るとか以前にこんな荒唐無稽なことを話して信じてもらえるとも思っていないので、最初から法的なことは無視すると決めていた。

 とはいえ、まずは避難を優先させなければならない。おじいちゃんとおばあちゃん、叔父さん夫婦は避難所へ行くことにした。おじいちゃんはタッちゃん返還作戦に行くと言って聞かなかったけど、歳が歳だからね。従妹が最初から最後まで動画を撮影してそのデータを渡すから、ということでしぶしぶあきらめてもらった。叔父さんと従兄がそれぞれの車で近隣の住民も含めて避難所に送り届けたとき、時刻はすでに午後5時を回っていた。この頃になると雨は土砂降りになり、夕方かどうかすらわからないほど薄暗くなっていた。このまま夜になればさらに視界はきかなくなる。急がないと。


────────


「タッちゃん、行くよ!」
 しっかり戸締まりをしたのを確認して、私は居間に置いてあるスマホに声をかけた。自然に、タッちゃん、と言えたのが……なんだか胸の奥がきゅっとした。わずか一日かそこらだったけど、私はこの伝説の生き物に愛着を覚えはじめていた。でも、もう終わり。お空に還してあげなきゃ。

 スマホの中から伸び上がったタッちゃんは大型犬くらいの大きさになっていた。光の線でできた体は変わらないし、妙な見え方をするのも同じだけど、頭の上のふたつの突起ははっきり角とわかるほどに伸び、顔もまだ幼さが抜けないものの、いかにも龍らしくなってきている。もはや畳に足をついて歩くことはなく、空中を優雅に舞い踊るようにして私の隣にやってきた。
「タッちゃん、ごはん食べに行くよ」
 私の言葉がわかるのか、タッちゃんは目をぱちくりさせてかわいい声で鳴いた。
 
 玄関の鍵をかけると、傘をさして、私は滝のような雨の中をいとこたちが待つワンボックスへと走った。雨の量と勢いは傘を潰しかねないほどの重さで、恐怖を感じるほどだ。本当にこれから山を登って発電所へ行けるのだろうかと不安になる。
 車の中には、従兄が運転席に、予備運転手の従姉が助手席に座り、撮影係の従妹が2列目の中央でハンディカムを構え、どこの戦国大名かと思うほど脚を開いて鎮座している。私は後列に乗り込み、スマホを握りしめた。タッちゃんは車の外にいて上機嫌で飛び回っている。雨を浴びて喜んでいるようだけど、不思議とタッちゃんの体には雨が当たっているようには見えない。すりぬけているのか、取りこんでいるのか。

 車が走り出した。私はタッちゃんに、おいで!ついといで!と車の中から叫び、タッちゃんはそれに応えるように一声鳴くと、まるで散歩に行く柴犬みたいに無邪気な様子で空中をくねりながらついてきた。
 人気のない農家の前を何軒か過ぎ、水煙を上げて逆巻く増水した川にかかる橋を渡り、山へと登る道へとワンボックスカーはノンストップで突き進む。ワイパーをMAXで動かしているのに、視界はまるで水中を進んでいるみたいだ。従妹のビデオカメラ、ちゃんと撮れているのだろうか。誰も一言も発さないけど、全員から不安な気持ちがひしひしと伝わってくる。
 
 ……でも。

 私は窓の外を見た。

 小さな龍は、豪雨をものともせず、むしろ楽しむかのように、ワンボックスと並走して飛んでいる。長い体をうねらせ、時には宙返りをしたり、らせんを描くように飛んだりしている。

 不思議な体験だ……

 私は、私たちは、伝説の生き物とドライブしているのだ。マンガや小説みたいに単純明快な、人間が全理解できる存在の龍じゃない。焦点を合わせて見ようとするとその姿はぼやけ、視界の端に写るとはっきり見える。これはたぶん、視覚の問題じゃない。きっとタッちゃんは……この生き物は、意識の外にいるんだ。ふだんから身の回りにいるけど、意識の外にいるから人間が認識できない、そんな生き物。限られた人だけにしか見えず、一握りの人たちが絵などに書き起こせるもの。伝説上の生き物とされるものは、特異な人間や、実際の生き物の比喩(メタファー)だったりするものがほとんどだろうけど、何らかの経緯で意識外の世界の領域に目を向けることができるようになった、一部の人たちが書き残した例だってあるかもしれない。そしてそれは、タッちゃんに限った事ではないのかもしれないのだ。心の焦点を絞らずに広げて、世界を感じれば……

 その時!

 突然、うわっ!という従兄の声と同時に、急ブレーキを踏む音がして、私は前につんのめった。体の下、車のボディを伝ってタイヤが水で滑るゾッとする感覚がする。横滑りしながらもとにかく車は止まった。
「どうしたの?!」
 私の問いに従妹がびっくりした顔のまま答える。
「タッちゃんが、飛び出してきて…それでお兄が急ブレーキを…」
 従妹はあいている方の手で助手席の肩をつかみ、なおも撮影を続けている。私は急いで窓の外を見た。確かに、タッちゃんが車の進路上に、まるで通せんぼをするかのようにぷかぷか浮かんでいる。さっきまで車と並走していたのに、なんで?
「あっぶねぇなー!なんだってんだ一体!」
 従兄は大声で悪態をついた。
「とりあえず戻すぜ。みんなケガないか?」
 従兄が車を進路に戻そうとしたとき、助手席の従姉がそれを遮って言った。
「ねえ。ちょっと待って。もしかして……」
 あいかわらずタッちゃんは道路を通せんぼしたままだ。それどころか今まで聞いたこともない大きな奇音でこちらに吠えかかっている。いや、吠えかかっているというより、何か必死に訴えているような感じがする。私も従姉の言わんとするところをすぐに理解し、懐中電灯を持って車から降りた。もう傘は役に立たない。シャワーのような雨の中をずぶ濡れになりながら前に十数メートル進むと、私は身の毛もよだつような光景を目の当たりにした。

(土砂崩れ…!)

 恐るべきことに、私たちの車からほんのわずか先で、大量の土砂が道路に流れ込んでいた。どれくらいの幅なのか、どこまで続いているのか、見当すらつかない。この視界の悪さから言って、あそこで急ブレーキを踏まなかったら確実に突っ込んでいただろう。反対側は緩やかとはいえ山の斜面だ。ことによっては怪我では済まなかったかもしれない。

「タッちゃん……守ってくれたの?」

 いつのまにかそばに降りてきていたタッちゃんに私はつぶやいた。小さな龍は目を閉じ、満足そうな顔をして頭を私の腕の下に潜り込ませた。私は雨の中で光り輝く頭をなでた。物質のような、現象のような、不思議な感覚だった。何よりも、触れていると、暖かな思考、無事を喜ぶ安堵が伝わってきて私の胸をいっぱいにした。雨に濡れた顔で、よかったと思う。
 車のヘッドライトがそろそろと近づいてくる。ワンボックスから降りた従兄は、こりゃあ……と言ったきり、おし黙って、タッちゃんに向かって深々と頭を下げたあと、歩み寄ってつややかな胴をなでた。従姉は予想が的中したことに震えながらも、両手で口を押さえながら走りより、タッちゃんの頭を抱きしめながら何度も感謝の言葉をささやいた。従妹は泣きながらカメラを回している。

 しかし。

 私たちは自分たちの危機を回避しただけだ。根本的な問題は何一つ進展していない。道路はふさがれてしまった。もう水力発電所には行けない。タッちゃんを天に還すという作戦は重大な障害を迎えてしまった。どうすればいい。
 私はあたりを見回した。迂回できそうな所はない。まして道路ぞいの照明から少し離れると、そこは濃い雨雲のもたらす暗がりが広がっている。まだ日没前のはずだけど、信じられないほど暗くなってきている。振り返ってみれば、市街地の明かりがぽつりぽつりと、頼りなく光っているのが見える。

 その時、頭に閃くものがあった。私はいとこたちに向かって叫んだ。

「電気は生きてる!」
「送電線はやられてない!」

 みんなはぽかんとした顔で私を見るばかりだけど、私は構わず続けた。

「変電所だ。変電所に行くしかない!」


────────


 道路緊急ダイヤルに土砂崩れ発生の連絡をしたあと、転がるように豪雨の山を降り、私たちは町のはずれにある超高圧変電所へと車を飛ばした。送電システムは、発電所で作った電気の電圧を上げて送ることから始まり、途中いくつかの変電所で徐々に電圧を下げ、最終的に家庭で使うのに適した電圧にまで下げるという形になっている。最初に送る時に電圧を上げるのは、途中で失われる電気エネルギーを勘案してのことだ。超高圧変電所は発電所から来た電気を最初に処理する変電所で、途中で電気エネルギーが多少失われていても、まだじゅうぶんな力があるはず。

 山を下っている途中、前方の黒雲の中が光るのが見えた。雷雲だ!間髪を入れず大気が震動する。近い!まるで雷の懐に突っ込んでいくようだ。
 タッちゃんの挙動が激しくなる。それまでの伸びやかで自由な飛び方ではなく、興奮してぴょんぴょん跳ねるようなそれになっている。それを見て私は確信した。あそこだ。あの雷雲の中に、親の龍がいる。間違いなくいる。
 稲光が暗い空を裂き、あたりを一瞬だけ照らし出す。続く雷鳴は耳を聾さんばかりに爆発し、胸の奥まで轟き響く音が地上のちっぽけな人間たちを恐怖させる。

 ついに車は超高圧変電所の前に到着した。車から飛び出した私は、上空でそわそわしているタッちゃんに大声で「お食べ!」と叫び!全身で変電所の設備を指し示してみせた。しかしタッちゃんは空のほうが気になるのか、なかなかこちらに興味を示してくれない。いとこたちも次々と車から転がり出てきて、力の限り叫び、私と同じ動きをして全員で変電所の設備へ誘導しようと奮闘した。
「こっちー!こーーーっち!!!ごはんだよーーーー!!!!!」
「ここの電気は産地直送よー!すんごくおいしいのよーー!!!」
「電気ウマイぞーーー!!!あー!ウメー!!!ウメーなー!!!ビリビリ」
「タッちゃん!食べないと大きくなれないよ!!お空に還れないよー!!」
 こんなことをめいめい金切り声で叫びながら、両腕をぶん回して同じポーズをキメているのだ。気の触れた新興宗教の狂信者か、日本の田舎町を狙う奇矯なテロリストだと思われても仕方がないところだろう。豪雨と激しい雷とが目撃者を遠ざけてくれていることを期待するしかない。

 ああ!ようやく気づいてくれたみたいだ。変電所の柵をゆうゆうと飛び越え、タッちゃんは建屋の中に姿を消した。すぐに、中から満足そうな奇音が聞こえ(後に従兄はこれを『ンマーイ』という音節として表現し、従妹は『うみゃい』と表した)、街灯の明かりが明滅しはじめた。変電所自体の明かりは影響がない。町は、と思い目を移したその瞬間、背後にゾゾゾっと異様な気配がして、私は身をこわばらせた。
 なんということだろう。変電所から発せられる放電をその身に受け、なんとクジラほどの大きさになったタッちゃんが、電気の輝きを放ちながらゆっくりと浮上してゆくのが、私には見えた。頭をまっすぐに空へ向け、おもむろに胴と尻尾をうねらせる様は、すでに成龍の風格を備え始めている。
 上の方からなにか聞こえたような気がして、私たちも一斉に空を見上げた。先程から絶えず大気を震わせている雷が鳴りをひそめたと思った次の瞬間、何条もの稲光が黒雲の中から現れ出、刹那がスローモーションに感じられるくらいの衝撃をもって──まるで定められた進路をなぞるように──天空を泳ぐ長い体をなぞるように──空に、今となってはなじみ深いものとなった輪郭を描き出した。その大きさたるや、タッちゃんの比ではない。続く雷鳴の中に、ある種の待望──あるいは解放の響きが感じられたのは気のせいではないはずだ。

 タッちゃんははずみをつけるようにその場で1回転すると、弾かれたように飛び上がった。そのまま黒雲を目指してぐんぐんと昇り駆けてゆく。

 がんばれ。がんばれ!

 私は拳を握りしめ、固唾をのんでタッちゃんの上昇を見守った。変電所からは断続的に稲妻がタッちゃん目がけて飛び、力を与え続けている。しかしこれはどこまで飛び上がれば終わりなんだろう。親の龍が大きすぎて遠近感が全くわからない。比較するものが無いからだ。けれど、たぶん親はギリギリまで降りてきている。その膨大なエネルギーが人里に被害を及ぼさないギリギリのところまで近づいてきている。それでもまだタッちゃんは届かないようだ。いや。届かないのではない。タッちゃんは途中で止まってしまっている!首を伸ばしたり、爪で空をカキカキしたり、いっしょうけんめいじたばたしていて、眼下の変電所からの雷も届いているのに、どうしてもそこから上に昇っていけない。たぶんあともう少しなのに…!

「……がんばれえ!!!!!」

 私は自分でもびっくりするくらいの大声で叫んだ。

「がんばれ!タッちゃんがんばれ!!」
 いとこたちも負けじと大声で声援を送る。
「頑張って!タッちゃん!もう少しよ!」
「できる!やれるぞ!あとちょっとだ!ガンバレ!」
「タッちゃーーーーーん!!!!がんばれーーーーーー!!!!」
 ちっぽけな人の子、それもたった四人で何が変えられるというのか。それでも私たちは声を振り絞り、あらん限りの声援をタッちゃんに送り続けた。親の龍がその存在だけで巻き起こす稲光と雷鳴はすさまじかったけど、不思議と自分たちの声はかき消されずにタッちゃんに届く気がしていた。

 だが、視界の端にあるものを捉え、私はぎょっとして叫ぶのを止めた。

 あれ……なに……?

 私たちのいる超高圧変電所から1次変電所へ伸びている、高圧送電線。その間にあるのは、そびえ立つ鉄骨トラス構造の送電塔。その、てっぺんに──青白い焔のようなものが──小刻みに震えながらわだかまっている。それも1本じゃない。2本、3本。4本!5本!!見える範囲にある全ての送電塔が、そのてっぺんに、何かわからないけどものすごいエネルギーを溜めている!このあと何が起こるかを本能で察した私は、いとこたちに向かって、「耳をふさいで」という趣旨の言葉をわめき、自分の耳を両手でふさいだ。

 その直後、一瞬あたりは真昼のように明るくなり、無数の電光が空へ向かって放たれるのを、私たちは見た。

 次いで瞬時に熱せられた大気が震動する感覚とともに、大音響が私たちを襲い、私たちは声も出せずに圧倒された。

 地上から空へ向けてほとばしる電気の奔流…… またたく間に上空へ到達したそれは、輝く束となってタッちゃんを押し上げ、一気に高空へと運んでゆく。その時私は確かに聞いた。聞いたように思った。まるで、高い高いをしてもらってごきげんな子供みたいな、嬉しそうな、楽しそうな鳴き声を


 雨を飲み込み、風を巻き、雲を突き抜け、ついに──


 ついに──星の下、雲の上で──親子の龍は対面を果たした。


 龍たちの線刻のような体を覆う、規則正しいリズムで閃くきらきらとした輝き。
 ゆっくりと近づく2柱の龍。
 タッちゃんが鼻をすり寄せる。
 親の龍は、そっと我が子のほほに自らの鼻を寄せ、静かに目を閉じた。
 そこにとりわけ光るものを見たのは、私だけだろうか。

 どばん!と巨大な何かが破裂するような音がした。2柱の龍を中心にして、雨雲が急速に吹き散らされてゆく。何かが空に波紋を作り、その比類なき力が嵐を鎮めてゆく。夕焼けの太陽が名残の光で大地を染め上げたとき、そこにはあれだけ降っていた雨も、荒れ狂っていた雷も、まるで嘘のように消え失せていた。


「雨が、……止んだ……」


 天候を司る龍神──

 私はぼんやりとそんな言葉を思い出しながら、空を見上げ続けていた。腰を抜かして尻もちをついている従兄も、口を開けてへたりこんでいる従姉も、執念でカメラを手放さない従妹も、空を見上げ続けていた。すっかり快晴となった空には夕闇が迫り、沈みゆく夕日を追いかけて、満天の星空が夜の到来を告げようとしている。

「消えちゃう……」

 従妹がぽつりとつぶやく。タッちゃんと親の龍──龍神は、星ぼしの間にその輝きを溶け込ませるように、輪郭をぼやけさせていった。タッちゃんは嬉しそうに龍神の周りを飛び回っている。

 ああ、これでおしまいなんだ。
 私たちの不思議な体験も、これでおしまい。
 タッちゃんを無事に天に還せた。親御さんのもとに還せたんだ。
 これでいい。

 手を控えめに振った。

 ……お別れだね。タッちゃん。

 月並みな言葉さえ出てこない。濃密で、不思議に満ちた夏の冒険は、あまりに短く、お別れの言葉を織り上げる余裕もない。

 消えゆく龍神が、立派な頭をこちらに向けたような気がした。

 ………………?

 ………………?!

 胸がいっぱいだった私は、予想外のことにうまく反応できず、いとこたちを見た。いとこたちも私を見た。みんな同じ気持ちだったらしい。私たちはお互いの顔を見合って、ただうなずき交わした。

 みんなも聞こえたんだね。

「ありがとう」、って……


────────


 冷え冷えのスイカにかぶりつき、豪雨から一夜明けて再び顔を出した太陽から隠れながら、私はおじいちゃんの家の縁側でのんびり過ごしていた。大雨洪水警報と避難指示は昨日の夜中のうちに解除され、河川は氾濫することもなく、大雨による被害は山を通る道路に起きた土砂崩れくらいで、他は最小限に留められた。負傷者も死亡者も出なかった。むしろ、嵐の中で日没寸前に起きた町全域の一斉停電のほうが話題をさらっていた。
 あの後、避難所にいたおじいちゃんとおばあちゃん、そして叔父さん夫婦と合流し、せっつくおじいちゃんをなだめて一部始終を話して聞かせた。高圧送電塔の件を話すと、おじいちゃんはそれは避難所からも見えた、と言った。ただし青白い焔のようなものは見えず、山の方を見ていたらいきなり送電塔から空に向けて何本も雷が走ったので驚いた、と言っていた。その後、突然雨も雷も止んだので二度驚いた、とも言った。タッちゃんを親の龍のもとに還したことを語って聞かせたけど、おじいちゃんたちは空へ昇るタッちゃんも、その上空にいた親の龍も見ていないらしい。
「稲妻が異様な形をしているとは思っとった」
 おじいちゃんは続けた。
「古来、それを龍神に例えることもあったかもしれんし、あるいはそれが龍神の顕現であったかもしれん。信じるよ。わしも子龍をこの目で見ておるし、否定する理由など何もない。お前たちが自分の目で見たもの、感じたものが全てだ。わしはそれを信じるし、今回の件の一連の出来事を、記録に残そうと思う。新たな龍の落とし子伝説の逸話となるだろう」

 従妹が撮った画像や動画には、残念ながらタッちゃんの姿は残っていなかった。従妹は愕然として、命がけで撮ったのに、と騒いでいた(私が耳をふさげと言ったあの時にもビデオカメラを離さず、器用にも片腕で両方の耳をふさいでいた)。確かに、撮影時にはモニターに写ってはいた。それは私も見ている。でも、心のどこかで、タッちゃんや龍神は、こういった記録媒体には残らないだろうという予感はしていた。なんでかって?

 それは、タッちゃんたちはおそらく私たちの視覚ではなく、感覚に訴える像を持っていると思うから。レンズ越しであっても、その存在を知覚できる時は、そこにいるように見える。しかしそれはあくまでも人にとっては未知の感覚であり、光学で写し取ることができるものではないのだと。

 ……あの時、タッちゃんを押し上げた送電塔からの放電。青白い焔のようなもの。私たちには見えて、避難所にいたおじいちゃんたちには見えなかった。あの時、停電が起きていたようだから、発電所からの電気には違いないのだろうけど、それにしたって人類の叡智だけであそこまでの力を出せるものなのだろうか。龍神が力を貸してくれたのか。それとも、まったく違う何らかの存在が手助けしてくれたのだろうか。謎は残されたままだ。

 これからは私たちが伝説の語り部になるんだろう。タッちゃんの姿こそ写っていないけど、ある夏の豪雨の日に撮られた私たち四人の冒険記録は、しっかり残っている。そして、空を見上げれば、雨の匂いをかげば、雷の音を聞けば、夏の風を感じれば、ぴちょん、という通知音を聞けば、そこにタッちゃんを感じることができる。


 心の焦点を絞らずに広げて、世界を感じれば、きっと、目に見えないものを感じ取ることができるんだ。


 そう考えると、なんだか楽しくなってきた。
 もっとゆっくり生きてみるのも、悪くない。
 この世は知らないことに満ちているし、人生は何が起きるかわからない。
 とりあえず、お盆とお正月だけじゃなくて、お彼岸にも来ようかな。


 また、会いに来るよ。龍の落とし子に。
 また、来るよ。『伝説が息づく町』。






※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません
 

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