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友よ、結婚って何?と聞いてくれるな

 美人だ。二重まぶたで大きな黒目、ちょうどいい塩梅の眉毛、整った鼻、柔らかそうな唇。入社式の日に同じフロアで初めて見たときから、20年以上経ってもなお、その感想は変わらない。
 そんな同僚でもある友が、世間でいうところの「幸せな結婚」「幸せな家庭」を築けないと言って、馬の絵が描かれた彼女の好きなワインを私のグラスに注ぎながら、困ったような顔で笑う。
 もう一人の、これまた違った類の美人…浮世絵の「美人画」に出てきそうな友が、わかる、わかると言いながら手際よく皿の上にクラッカーを並べる。
 私は、もし取り換えられるのなら、大きな目の友の華やかな容姿の中に入って、今すぐ素敵な男性をとっ捕まえてきてあげるのに…と思うのだが、まだ酔ってなかったので黙っていた。
 目が大きい友は、離婚後、妻子ある男性との関係を続けている。彼がこう言うのだという。「もう少し待ってくれ」と。
 笑ってしまった。果たして、何年、何百、何千、何万年前から繰り返されている人間の性だろうか。10代、20代じゃぁあるまいし、もう40を過ぎた美人がまだその類の問題に捕まっていることに、少し苛立ちさえ覚えた。
 しかし、目の大きい美人な友は自虐的に笑って「彼も奥さんに愛はないのに、結婚って一体なんなんだろうね」と呟いた。悲しそうに垂れた眉毛がこれでもかと不憫さを演出しても、それでもやっぱり友は整った顔をしていた。
 ワイングラスを立てて乾杯をする。
 目の大きい友は、横を向いて一気にワインを飲むと、立ち上がってくすんだ青い陶器の上にチーズを並べた。壁には、やはり青で幾重にも塗り重ねられたモダンな絵が何枚か掛けられている。すべて友の趣味だ。
 美人画のような友は、「どれもこれもセンスがいいわよね」とクラッカーを食べながら目が大きい友に言うと、彼女は「そう? なら良かった」と笑った。「そうでしょう!!」でもなく「まあ、そんな、ただのシャガールですのよ」でもない、友らしい受け答えを聞いて、不倫相手の男性が、友のアイデンティティを破壊していないことに安心した。
 ワインが進み、みな、ほろ酔いになった頃、目の大きい友は「もうやめなきゃね」と言った。その後で、「あー。でも、彼に嫌われてしまう」と言ったので、やめるのはワインじゃなく彼のことかと悟った。友はそのままトイレに立ち、用を済ませて席に戻る途中でカウンターにあったピンク色のリップスティックを取りひと塗りすると、私の後ろを通って前の席に戻ってきた。やっぱり、悩んでいる割には美人だった。
 突然携帯が鳴り、今度は、美人画が私の後ろを通って、隣の部屋へ移動した。
 少しして隣の部屋のドアが開くと、赤ん坊のように真っ赤な泣き顔を出して「人生終わったー。振られたー」と美人画は叫んだ。どうやら10コ以上年下の愛人に振られたらしい。
 美人画は数年前から夫に内緒で何人もの愛人と交際している。そのうちの一人から、「彼女にばれたから別れて欲しい」と言われたようだ。「こうなったらヤケ酒よ、付き合ってよね」と言うが早いか、美人画は新しいワインを開けて私のグラスにもワインを注いだ。
 二度目の乾杯をする。美人画は真っ赤な顔で「本当にー、結婚したらつまんない!! 旦那構ってくんない!! 愛人君には振られるし、散々」と宙に向かって叫んだ。「いやだ、いやだ、いやだー」と子供のように泣く美人画の横で、目の大きい友はわかる、わかると言い、困ったような顔でなだめた。そうして、ゆっくり言った。「本当に、結婚ってなんなんだろうね」と。
 
 目の大きい友が選んだ瀟洒なワイングラスの向こうに、モダンなシャガールの絵が映る。
 どれもこれも、美しい友の存在を高めるスパイスだ。その時、霧散していた何かが私の一箇所に集まった。
 そうか、目の大きい、美しい友は、始めから恋愛などする気がないのだ。自己憐憫を感じれば感じるほど、激しく己を認識することができる。愛されない自分、結婚という形からあぶれる自分、常識から外れる自分こそが特別で、言うところの「幸せな結婚」などはなから欲しくないのだ。
 美人画のほうが「結婚」を前向きに捉えている。夫に愛されたい。多数派の結婚観だ。

 人間の真理は大昔から変わらない。聖書でも仏典でもだ。目の大きい友は、直観で分かっている。不倫に溺れた40代ではなかった。そこに自分が探している魂を震わす何かがあるかもしれないと期待して、不倫をした。それだけのことだ。そう考えると、美しい友は、何と自分に正直なのか。「こうあるべき」「これが幸せ」という誰かが作った価値基準に無理くり当てはまろうとするより、よっぽど潔い。

 友よ。誰かに尋ねるより、もう、結婚について議論しても意味がないことくらい己が一番よく知っているのではないのか? 己の自己憐憫が満たされ表現する必要がなくなったとき、あるいは、それを満たしてくれる相手が現れた時、その誰かと生涯を過ごすこと…それが友にとっての結婚だろう。

 美しく難しい友よ。大丈夫。あなたはもう分かっている。
だから、友よ。結婚って何?と聞いてくれるな。
 

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