妹のブラジャー

 Kが今ではすっかり忘れてゐると、さう思ふたびに思ひ出すのは、あのことだ。
 中学三年生、十四歳のときだった。
 妹が部屋の中から呼んだ気がして、妹の部屋に入ったら、妹はゐなかった。
 妹は、十二歳になったところで、来年は中学に入る。
 妹の部屋には、このところ入ったことが無かったのだが、といふことは、それまでは妹の部屋で過ごすことが多かった。ふと見ると、かつて妹とふたりでよく遊んだころの子供部屋ではなくなってゐた。
十二畳の畳敷きの部屋だが、妹がものごころつくころから洋式の寝台をほしがって、両親がクリスマスプレゼントとして買ひ与へた、大きなそれが窓の下にある。見慣れてゐるはずのその寝台までが、もう子供ではなくなった女の子の身体が横たはるものに見えて、あそこで二人で羽毛布団の下に入って時を過ごし、やがてはどちらの身体がどちらのものかわからないやうなって寝てしまった日が遠くのはうにあった。
 もうそれ以上、あちこちを見回すのがなんとなく憚れる気がしてきて、Kは
「おーい、М」
と妹のゐない部屋の中で、妹の名前を一度呼んで、そして、部屋を出ることにした。妹の留守を狙ってこっそりと入ったわけではないといふ、自分自身に対するアリバイ工作だった。
 そのとき、Kは、ふと、足元にもう少しで踏みそうになってゐた、薄桃色の繊細なレース模様に気づいた。それが何かは、実は、部屋に入る前からわかってゐたやうな錯覚が起きた。それくらゐ、それは確固としてそこにあった。
 気づかないふりをしようとKは思った。絶対に拾ひ上げてはならない。
 さう思ったのに、思ったときにはすでに手に握ってゐて、誰かに気づかれないように、それを上着の内ポケットにねじ込んだ。こぢんまりとした内ポケットはそんな乱暴狼藉に腹を立てたやうに、タイトな上着の胸の稜線を無遠慮に歪めた。
 これでは、そこに何かを隠し持ってゐることは誰が見てもわかる。
隠してゐて、単に持ってゐるのではないのは、そんなに無様に膨らんでしまふ何かを、その上着の隠しポケットに押し込んでゐるのだから、言ひ訳は通じない。

 Kは追いつめられた思ひで、そのまま立ちつくしてゐた。
 それを持ってどこかに行くでもなく、しばらく立ってゐた。
 妹のものだから、持ち出すわけにはいかない。それで、もう一度、誰もゐない部屋をぐるりと見て誰もゐないのを、とくに部屋の主である妹が確かにゐないことに自分で自分を納得させてから、それを胸の中から慎重に取り出した。
 ひろげてみると、それは思ったとほり、レースの小さな花模様で覆われた薄桃色のブラジャーだった。
 妹がブラジャーを着けだしたことはずいぶんと前から気づいてゐた。とは言ふものの、いつからだったのか思ひ出せない。
 手の中のそれが、まだ温かいと思ったのは、自分の体温のせいにちがひない。けれども、Kには、自分の体温で保たれた妹の身体の温かさだと思へてしまふのは、おそらく、さう思ひたいからだった。
 ほんのりとした温かみが、ほんたうにМの身体のものかどうかはわからないが、そこから、ほのかに漂ってくるのは、確かに、妹の身体の香りだった。 
 Kは、もちろん、それを知ってゐた。あれだけいつも抱き合ふやうに身体を接し合ってゐたのだから、まるで自分のそれのやうに知ってゐる。
 けれども、知ってゐたことに気づいたのは、その時だった。
 もう一年も二年も前から、Kは妹と話すときにはいつもその香りを感じてゐたのを、その時になってやっと意識した。知ってゐるものを知らずにまたそれだと感じてゐて、そのこともいま、Мのふくらみだした胸に着ける下着を見ながら意識した。
 これだったのかと思って、或る種の感慨があったのだけれども、Kは決して、その薄桃色の胸の下着に、それ以上は顔を近づけなかった。
その妹の香りを改めて確かめようとはしなかった。
 もう十分だったのだ。すっかりそれはKの身体の中にまで届き、こころにすら入り込んでゐた。その小さな花が散りばめられた下着から微かな香りと共に、Kが、くっきりと甘受するのは、妹の簡潔な身体だった。過剰なもの、貪欲なものはどこにも見当たらない。手に伝はってくる、風に浮き立ちそうなくらゐの軽さは、妹のどこも柔らかな四肢と綯ひ交ぜになりながら、妹のこころの透明を質感にしてゐた。
 突然、それは内側から光ってゐるかと思ふくらゐ、浄化されていった。清浄なそれは、妹のからだでありえたし、こころでもありえたし、どちらでもないものでもあった。
 Kはなにもかもわかったやうな気がした。

 どれくらいか、は、それを奉げるやうに持ってゐたのだが、やがて、ちょうど少し先に見えてゐた机に近づいて、そこに、それをそっと置いた。

 自分が妹を女の子として好きになってゐるのではないかといふ、小学校の六年生くらゐから芽生えて思春期を貫いてますます大きくなって、しきりにKを苦しめてゐた疑念は、これですっかり晴れた。晴れたのは、確かに、ぼくは妹が好きだ、女の子として好きだ、そのからだも好きなのだといふ自覚によって晴れたのだった。
 妹ほど好きな女の子はゐない。そして、それほど好きな女の子は妹であるから、Kは、妹の肌には、一生、今後、指も触れないだらうといふ確信が湧いた。かつて、風呂で身体をすみずみまで洗ってやったものだった。おぶったこともあり、胸にしっかりと抱いてやったこともある。もう妹の胸はふしぎなふくらみを見せてゐた。いつも妹はくすくす笑ってゐて、抱いてやったときなどは、大きななりをして、そのまま眠ってすっかり重くなってKを困らせたこともよくあった。
 Kは、その頃に、自分の好きな妹の、好きな女の子でもある妹のからだに、なんら不純な思ひもなく触れることができたことを嬉しく思った。そして、その喜びを噛みしめると、今後の人生の分まで十二分に妹の美しく清潔で甘い香りのするからだのすみずみまでに、男として、触れ尽くしたと確信した。
 Kも、もちろん、他の少年たちと同様、思春期の気まぐれで獰猛な性欲には戸惑ってゐたのだが、その日、これからは、迷いなく、妹を好きであればいいのだと確信した。暗夜に吹きすさぶ性欲の嵐の中、確実に帰還するべき港の方角を示す灯火を見出したと思った。
 これまでにも無かったが、これからは確実に、妹のからだを思ひながら自ら慰めることは無いと思った。

 Kの妹のМは、大学の在学中に結婚して、十年後に離婚して戻って来た。両親は自分たちでマンションを購入してそこに移り住み、それからはずっとKが独り暮らしをしてゐた。一人で住むには広すぎる家だったが、親のゐない家をKは気に入ってゐた。そこに誰か他人を入れて住む気にはなれず、結婚といふことも思ひつかないまま五年ほどたったときに、妹が帰って来たのだった。
 ふたりで暮らすやうになって、さっそく三年が経った。
 なんだか前からふたりでこの家に暮らしてゐる感じがして、Kだけでなく、Мも、わたしとお兄ちゃまはここで生まれてからずっと暮らしてるみたいと言った。
 母親から生まれたのではなく、この家がわたしたちを生んだんぢゃないかしら、そんな気が、お兄ちゃまはしないこと?

 Kは笑った。さう言はれると、そんな気になってしまふ。
 さう返事をすると、妹はくすくす笑ひながら、あの胸の下着について話し出した。
 Мは、部屋の戸から顔だけ出して大声で兄を呼んだ。兄が部屋に向かふのを部屋の戸の隙から確かめて、Мは、急いで部屋の真ん中に戻り、ブラジャーを畳の上に脱ぎ捨てた。上半身にはそれしか身に着けてなかったので、裸の胸を腕でおさへながら、押し入れの中に入った。寝台を買ったときから押し入れは空で、屋根裏部屋ならぬ隠し部屋のやうになってゐた。戸の隙間から明るい部屋の中はきれいに見えて、ほぼ真っ暗な押し入れの戸の隙間は、部屋の外にゐる者にはまったく見えてなかった。Мは安心して心ゆくまで、兄の様子を観察できた。
 兄がそれに取り上げると、さっそくМの胸に兄の手が触れた。触れたやうな気がしたのではなく、ほぼ真っ暗な隠し部屋の中で、兄の手は確かにМの胸に触った。
 それがぐいぐいと上着の内ポケットにしまはれるときには、Мはあやうく声を上げそうになって、自分の二の腕に噛みついて口を封じた。
 やがて、ゆっくりと兄の体温が伝はって来た。かつてよく兄に抱っこされたときの嬉しいやうな泣きたいやうな妙な気持ちになり、その気持ちのままの声が、また、喉の奥から上がって来たので、噛んでゐる腕をさらに噛みしめた。懸命に声を殺した。
 もう無理だと思ったとき、兄はそれを上着のポケットから引っ張り出した。Мはもっと優しくしてほしいと思ったが、こんどはくすくす笑ひそうで、それを抑えるために腕を噛んだ。
 兄の姿が、戸の隙間のゆるす視界から消えた。Мは腕から口を話した。血の味がしてゐるのに気づいた。
 戸がしずかに閉じられる音がしてから、Мは、まだしばらく暗闇の中にゐた。そして、もう兄がゐる気配がまったくないのを感じて、押し入れの戸をすべらせた。
 裸の胸を血が滴る腕で隠しながら、部屋の中を進むと、机の上に、それがあった。
 レースの小さな花模様で覆われた薄桃色のブラジャー。

 妹が話し終はると、Kは、さうかと頷いて、微笑んだ。小さいときからいたずら好きで、いろんなことでからかはれたものだった。考へてみると、いかにも妹のやりそうなことだ。わざとそこに脱ぎ捨ててゐたのだと、今なら、それに決まってると思ふことを、中学生だった自分が思ひもよらなかったのは、不思議だった。
 それでも、Kの心は穏やかで、こんなに穏やかな心持ちになったのは生まれて初めてだと思った。

 わたしはお兄ちゃまが好き。ずっと好きだったとМが言った。自分が結婚してみてわかったけど、お兄ちゃまは女の人と結婚なんかできない人だわ。わたしがいつまでもお兄ちゃまの妹として、ずつと面倒をみてあげるんだって、自分が結婚したときから決めてたの。お兄ちゃまが歳をとってわたしがおばあさんになって、お兄ちゃまが死ぬまで、ずっと。
 ずっと一緒に暮らしませうね。

 Kは確かに結婚を考へたことがなかった。童貞ですらあった。では、この先、どう暮らしたいのかと自分に問ふことがあったなら、たぶん、妹とずっと暮らすことしか思ひつかなかったに違ひない。
 兄として妹として、ふたりで、いくら歳を重ねても、ずっと、両親から取り残されてふたり家に閉じこもる子供にやうに暮らすこと。
 それしか思ひつかなかったに違ひない。


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