実話が生んだ最上の映画 「最強のふたり」
映画の紹介
今回私が見た作品は「最強のふたり」という作品です。
有名な作品ですので知っている人も多いのではないでしょうか。
日本国内におけるフランス映画の興行収入では歴代1位の記録を残しています。
タイトル:最強のふたり
制作国:フランス
制作年:2012年
主演:オマール・シー
あらすじ
この映画の主な主人公はタイトルにもあるように”ふたり”です。
1人は前科があり貧しい生活を送る青年、
もう一人は体の障害をもち裕福な老人、
正反対のふたりなのです。
社会で出会うことがなさそうなこのふたりが”最強”になってゆく様子が描かれています。
感想(ネタバレあり)
私が最も印象に残っていることは最初の場面、そして最後の場面です
すでに鑑賞した人ならわかると思いますが、最初の場面と最後の場面は描かれている様子は同じです。しかし私が感じたことは全く異なりました。
車を暴走させる少し悪そうな青年。車いすの老人。
もし私がこの二人に出会ったら
青年に対しては
おびえ、小さな声で、許しを請うように、
老人に対しては
優しく、朗らかに、親切な人のように、
ふるまうだろう。
なぜって青年は私にとっては恐怖の対象で老人は親切心を向けるべき対象に見えたからだ。
このように私の心中は先入観と固定観念にまみれていた
一方で青年と老人の対話はそういったものが一切排除されている。
青年は老人の体が麻痺していることに興味をもち足に熱湯をかける
現代アートを堪能する老人の前で自分でもかけるという
老人は複雑な青年の家庭事情を追求する
ふたりの人間の対話から遠慮を取り除き残ったものは
単純な感情の交換だった
失礼だろう、と思うようなことも言う
相手を傷つけるだろう、ということも言う
それがすべての場合において正しいといえるかはわからない
しかし、「相手を対等に扱う」ということを私は勘違いしていたのではないかと思わされた。
社会におけるマイノリティとされる人々と、もしくはマイノリティとされていなくても自分と異なる感性を持つ人と対等に接するということは自分の知らない感情を知っているふりをすることなのか。いろんな人がいると自分を納得させることなのか。
人の考え方は十人十色
いや一人の人でも時と場合によって異なるだろう
同様に他人に求める態度も「十人十色以上」だろう
ひととのコミュニケーションにおいて正解はない
でも、人を傷つけないように、相手を悪い気にさせないように
そう思いすぎることで分かり合えない場面が生じてしまっている気がする
「単純な感情の交換」が生み出した最強のふたり
人とのコミュニケーションが苦手な私であるが
ふたりがふたりなりのコミュニケーションを成立させたように
私も私なりのコミュニケーションを成立させるべく
社会にあふれる考え方に時には疑問を投げかけながら
人間関係を築いていきたい