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人に認められるか、神に認められるか?

[列王記 第二 12:19,20,21]

ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を討ったので、彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。

今日の聖書箇所
II列王12:9〜21

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

ヨアシュ王の業績と悲惨な最後が記されています。

ヨアシュ王は生まれてすぐに殺されそうになったところを祭司エホヤダの妻エホシェバによって救われ、祭司エホヤダによって神殿でかくまわれて生き延びることができ、7歳にして王に即位することとなりました。

ヨアシュ王は祭司エホヤダが生きている間は主の目にかなうことを行っていたのですが、エホヤダが死ぬと主なる神に対する信仰をあっさりと捨ててしまいます。

[歴代誌 第二 24:17,18,19]

エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。彼らを主に立ち返らせるため、預言者たちが彼らの中に遣わされた。預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。

ヨアシュはそれを戒める預言者たちの声にも全く耳を貸さず、何と悔い改めを迫った祭司エホヤダの子ぜカリヤを打ち殺してしまうのです。

[歴代誌 第二 24:20,21,22]

神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。』あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、王の命令によって、主の宮の庭で彼を石で打ち殺した。ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意を心に留めず、かえってその子を殺した。ゼカリヤは死ぬとき、「主がご覧になって、責任を問われますように」と言った。

このようなヨアシュの裏切りと罪に対して主なる神からの裁きが下ります。アラムの王ハザエルによる侵略です。

[列王記 第二 12:17,18]

そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。さらに、ハザエルはエルサレムを目指して攻め上った。ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。

ヨアシュはこのような国家的な危機を迎えても悔い改めることも、ひざまづいて祈ることもありませんでした。自分が一生懸命修復した神殿にある金、銀、宝物をハザエルに与えてその危機を人間の方法によって逃れようとするのです。

これによってヨアシュの業績であった神殿修復も成果も全て消えてなくなります。そして最後は自分の家臣の裏切りによって殺されてしまうのです。ヨアシュはいのちの恩人であるエホヤダを裏切りましたが、同じように自分も裏切られて悲惨な死を遂げることになってしまったのです。

ヨアシュの前半生は信仰によって改革を進めた善き王に見えたのですが、後半生は裏切り者の最悪の王となって悲惨な死を遂げてしまいました。人がここまで変わるのかと思うほど変わってしまったように見えます。

しかし実はそうではないように思えるのです。ヨアシュの信仰は最初から偽りの信仰だったのではないでしょうか?

エホヤダが生きている時とエホヤダが死んでからこれほど変わってしまうのはヨアシュは最初から主なる神、イスラエルの神を信じ、畏れていたのではなくただエホヤダという人に喜ばれ、気に入られ、認められることだけを追い求めていたのではないかと思います。

ヨアシュ自身が主なる神と直接関係を持っていたのではなくどこまでもエホヤダを通して主なる神とつながっている間接的な信仰に過ぎなかったのでしょう。それゆえエホヤダが死ぬと主なる神との関係も切れてしまい、今度はユダの指導者たちに喜ばれ、気に入られ、認められるためにあっさりと主なる神もエホヤダも裏切り、偶像崇拝を始めてしまったのでしょう。

ヨアシュの中心は常に人に認められることだったのです。それゆえ神殿修復に取り組み主なる神を畏れているように見えてもそれは偽り、偽善にすぎなかったのです。

ヨアシュの偽善、偽りの信仰はその正体が明らかになる時が来てしまったのです。それゆえヨアシュは主なる神も大恩人であるエホヤダも簡単に裏切り、その報いを受けて自滅することになってしまったのです。

私たちは信仰の焦点がどこにあるかをいつも点検していかなければなりません。信仰の焦点が人に向かい人生の目標が人に認められることであるなら、その信仰はどんなに熱心に見えても躓いたり、偽り、偽善となりやがて崩れてしまうからです。そしてそのような人生は蛇行し、破滅への向かっていきます。

それゆえ私たちは信仰の焦点を常に変わることのない神ご自身とその御言葉に合わせていかなければなりません。人生の目標を人ではなく神に認められることに定めていかなければなりません。それだけが人生の確かな土台となり、永遠に失われない霊的な資産を築く成功的な人生を歩ませてくれるのです。

人に喜ばれ、認められることを追い求めていったヨアシュは全てを失ってしまいました。しかしエホヤダの息子ゼカリヤは主に認められることを追い求めて殉教の死を遂げていきました。そのゼカリヤについてイエス様はこのように言っておられるのです。

[マタイの福音書 23:35]

それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。

ゼカリヤは主なる神に覚えられ、神からの報いを受け、そして悪しき者たちには必ず義なる裁きが下されると主は言われたのです。

私たちもまたその主なる神を真実に畏れる者となりたいと思います。

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