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人のふり見て我がふり直せ

[オバデヤ書 1:15]

なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。

今日の聖書箇所
オバデヤ1:15〜21

今日もオバデヤ書から恵みをいただいていきたいと思います。

イスラエルの兄弟国であったエドムはそれまで自分たちより強かったイスラエルの滅亡を喜び、バビロン捕囚という悲劇の中にあったユダに侵入して略奪を働きました。

そして自分たちは安全だ、多くの富と仲間がいるとおごり高ぶっていたのですが、オバデヤは主なる神の裁きの盃は必ずエドムにも、そして全ての国々にも周ってくると宣言するのです。

神の裁きには明確な原則があり、それは蒔いた通りに刈り取らせるというものです。良きにつけ、悪しきにつけ神は蒔いたものを刈り取らせるという形で裁きを下されるのです。

エドムがユダに対してなしたことはそのままエドムに帰ってくることになるとオバデヤは宣言します。

[オバデヤ書 1:18]

「ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」主がこう告げられたのである。

この時、エドムは自分たちはユダのように滅亡することなどないと思い上がっていたのですが、やがてBC129年にバビロンから帰還したユダヤ人の子孫、ハスモン王朝にヒュルカノス一世によって征服され、滅亡してしまうことになります。

確かに南ユダも北イスラエルも自らの偶像崇拝と神との契約違反によって神に裁かれ、北イスラエルはアッシリアに捕囚され、南ユダはバビロンに捕囚されることになったのですが、エドムを始めとする周辺の国々はそれを見てあざ笑い、喜ぶのではなく罪はやがて必ず刈り取ることになることを悟って悔い改め、主なる神を畏れるべきだったのです。

しかしエドムはますます高慢になって主なる神など何の役にも立たないと罪に罪を重ねていったのです。そしてその罪を刈り取る時が来ることになってしまったのです。

一方のユダはバビロン捕囚という言葉に表現できない苦しみの中で初めて自分たちの偶像崇拝を悔い改め、捕囚された民は自分たちに与えられた神の言葉を一つにまとめるようになるのです。それが旧約聖書となっていきました。

苦しみを通して悔い改め、神の言葉に立ち返っていく時、主なる神はどんなに荒れ果てたところからでも回復の恵みを注いでくださるのです。

[オバデヤ書 1:17]

しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。

シオンの山は神殿が建っていたところでした。苦しみを通してシオンの山、礼拝を回復し、神の御言葉に立ち返っていくならば、全てを失ったかのように見えてもそこから神の回復の恵みは注がれていくのです。

オバデヤ書、そして全ての預言書、さらには聖書全体がそのような回復の希望を語っているのです。

私たちは苦しみに会う時、神がいるならどうしてこんなに私を苦しめますかと神を恨むのではなく、主権者なる神の前にへりくだり、何を学ぶべきかを問い、悔い改め、礼拝と御言葉に立ち返っていきたいと思います。その時、どんなところからでも回復の恵みは注がれるからです。

また人の苦しみを見て、あざ笑ったり、裁いたりするのではなく、自分にも同じように蒔いたものを刈り取る裁きの時が来ることを覚えて悔い改める者となりたいと思います。そして肉に蒔くものは滅びを刈り取り、御霊に蒔くものはいのちを刈り取ることを覚えて、御霊に蒔くものとなっていきたいと思います。

[ガラテヤ人への手紙 6:7,8,9]

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

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