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目に見えない問題が重要です

[ヨエル書 1:5]

目を覚ませ、酔いどれよ。泣け。泣き叫べ、すべてぶどう酒を飲む者よ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。

今日の聖書箇所
ヨエル1:1〜12

今日からヨエル署から恵みを受けていきたいと思います。

ヨエルという預言者がいつ、どこで活躍したかは分かっていません。恐らくBC7世紀〜BC5世紀くらいに南ユダにいた預言者ではないかと言われています。

ヨエル書が有名なのは聖霊降臨についての預言があるからです。しかしヨエルは聖霊降臨の前に大きな災いの時があること、そして真実な悔い改めが必要であることを語るのです。

ここで語られているのはいなごの大襲来による食糧危機が起こったということです。

[ヨエル書 1:2,3,4]

「長老たちよ、これを聞け。この地に住む者もみな、耳を傾けよ。このようなことが、あなたがたの時代に、また先祖の時代にあっただろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。噛みいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、バッタが食い、バッタが残した物は、その若虫が食った。」

いなごの襲来はかつてイスラエルの民がモーセによってエジプトの奴隷から解放される出エジプトの時に、エジプトに下された神の裁きの一つでした。

[出エジプト記 10:12,13,14]

主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。

ユダの民は神の民である自分たちにそのような災害が起こるとは考えもしなかったのではないかと思います。ヨエルはこれは神の裁きであり呪いであると言うのです。

[ヨエル書 1:7]

それはわたしのぶどうの木を荒れすたらせ、わたしのいちじくの木を木っ端にした。これを丸裸に引きむき、投げ倒し、その枝々を真っ白にした。

ぶどうの木もいちじくの木も豊かさを象徴します。それが枯れることはイスラエルの民が神との契約を破ったための呪われたことを象徴的に示しているのです。

なぜそんな呪いが臨むのか?そこには目に見えない霊的な原因がありました。

[ヨエル書 1:8,9]

悼み悲しめ。粗布をまとったおとめが、その若いときの夫のためにするように。穀物と注ぎのささげ物は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服す。

いなごによる干ばつによって主の宮での礼拝も奪われ、ユダの民は食糧に飢饉だけではなく神の言葉の飢饉、霊的な飢饉に陥るのです。

これはユダの民が主なる神を礼拝していると言いながら、裏では多くの偶像を礼拝し、神の御言葉を聞こうとはしなかったことに対する裁きであり、呪いだったと言うことです。

ユダの民はそのように霊的に深刻な問題を抱えていたのですが、自分たちには神殿があり、自分たちは神の選びの民だと驕り高ぶっていたのです。

しかしそのように霊的に腐敗し、乱れきっている状態がいなごの大襲来と飢饉という現実的な問題を引き起こしたのです。目に見えるいなごによる食糧危機という問題の本質は神との契約、神の言葉をないがしろにしているという霊的な飢饉にあったということです。

それゆえヨエルはユダの民に霊的に目を覚まし、真実に悔い改めることを迫るのです。それがなければ目に見える食糧危機を解決できたとしてももっと大きな裁きと呪いが来るからです。

私たちもまた目に見える問題が起こると深刻に悩み、その解決策を探し求めますが、目に見えない霊的な問題についてはまるで無関心でそれについて考えようともしないことがどれほど多いことでしょう。

目の前のことがうまくいっていれば神からどれほど離れていても、神の言葉にどれほど背いていても問題を感じないのです。神様は愛だから大丈夫でしょうとしか考えないことがどれほど多いことでしょう。

しかし目に見えない霊的な問題はやがて目に見える問題となって現れてくるのです。そうならないためには問題が起こる前から神との関係をしっかりと確立し、神の言葉という土台の上に人生を築くことです。

しかし残念ですがそのように言っても表面上うまくいっている時はほとんどの人が全く耳を貸してくれません。それが霊的に眠っているという状態です。やがてどうすることもできない問題が起こった時に、霊的に目を覚ますことができるでしょうか?その時に神の言葉に耳を傾け、神の言葉に従い始めることができるでしょうか?

願わくは裁きの時が来る前に目を覚まして主とその御言葉に立ち帰り、嵐の時にも揺るがない確かな霊的な土台を築いていく者となりたいものです。目に見える問題は全て目に見えないところから生まれてくることを忘れないようにしたいものです。

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