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明日ではなく今日が大事です

[列王記 第二 15:9,10,11,12]

彼は先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。ゼカリヤについてのその他の事柄は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。主がかつてエフーに告げられたことばは、「あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く」ということであったが、はたして、そのとおりになった。

今日の聖書箇所
II列王15:1〜12

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

南ユダのアザルヤ王と北イスラエルのエフー王朝最後の王であるゼカリヤ王の統治について記されています。

アザルヤは歴代誌ウジヤとなっています。このアザルヤは在位期間も52年間と非常に長く、この時代南ユダは繁栄の時代を迎えました。

[歴代誌 第二 26:15]

さらに彼はエルサレムで、巧みに考案された兵器を作り、矢や大石を放つために、やぐらの上や城壁の角の上に据えた。こうして、彼の名声は遠くにまで広まった。彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである。

アザルヤは主の助けで強くなり、成功し、繁栄したのですが、それを自分の力によるものだと高慢になってしまいその身に滅びを招くことになってしまいました。祭司だけが捧げることができる香を主の御前に捧げようとして、主に打たれてツァラアトという病気にかかってしまうのです。

[歴代誌 第二 26:16,17,18,19]

しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。すると、彼の後から祭司アザルヤが、主に仕える八十人の勇敢な祭司たちとともに入って来た。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは主の信頼を裏切りました。あなたには、神である主の誉れは与えられません。」ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。

人が成功して高慢にならないということは不可能に近いほど難しいことではないかと思います。そして高慢の恐ろしいところは自分が高慢になっていることが分からないということなのです。そして聖書は高慢になるなら悪魔と同じ裁きを受けると警告しています。

[テモテへの手紙 第一 3:6]

また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。

悪魔と同じさばきとは地獄の刑罰ということでしょう。そうなるなら成功しなかった方がはるかに良かったということになります。どんなにこの世で成功して人々に賞賛されたとしても高慢になって悪魔と同じさばきを受けるくらいならつつましい生活をして謙遜である方がはるかに祝福され、守られていたということになります。

何が本当の祝福なのかはこの世では分からないのです。天に帰った時に自分の願ったような成功をしなかったことが実は祝福であったことを知ることになるということが多くあるのではないでしょうか?

ウジヤも繁栄し、成功している時に主に喜ばれない高き所での偶像崇拝を取り除くために立ち上がって主の御言葉にますます従うことを求めていたならこのような最後にはならなかったでしょう。ウジヤはその繁栄と成功の中でそのチャンスを逃してしまったのです。

そしてそれは北イスラエルもまた同じです。

エフー王朝最後の王ゼカリヤはたった6ヶ月で家臣の反乱によって殺されてしまいます。その前のヤロブアムニ世の統治は41年と長く、しかも繁栄と平和が続きました。イスラエルの王も民もその期間に謙遜になって悔い改めるべきだったのです。

しかしイスラエルの王も民も反対にますます高慢になり堕落していったのです。ゼカリヤが6ヶ月で殺されてしまったのは滅亡の時が近くなっており、しかもそれが急速に近づいていることを示しているのです。

このような状態になる前にへりくだり悔い改めていたならと残念でなりません。私たちは明日も今日と同じだろうという錯覚をどれほど持ってしまうことでしょう。私たちは今日という霊的なチャンスをどれほど逃してしまうことでしょう。

明日でもいいが一週間後、一ヶ月後、一年後になってしまうことがどれほど多いことでしょう。そのようにしていて悔い改めのチャンスを失ってしまうのです。

私たちは今日、悔い改めるべきではないでしょうか?今日、祈るべきではないでしょうか?今日、礼拝するべきではないでしょうか?今日、御言葉を聞くべきではないでしょうか?今日、御言葉に従うべきではないでしょうか?今日、共に集まるべきではないでしょうか?

明日はもうそれができなくなってしまうことが数多くあることを忘れないようにしたいものです。それゆえ御言葉はこのように語るのです。

[へブル人への手紙 3:12,13,14,15]

兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。

今日の祈り
主よ、今日がどれほど貴重な時でしょう、この日を無駄にしないで謙遜になって祈り御言葉を聞いて従う者となれるよう助けてください。

緑の牧場グレースチャーチ
牧師 股村 大

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