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嵐は神に出会うチャンスです

[マルコの福音書 6:48,49,50,51]

イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。

今日の聖書箇所
マルコ6:45〜56

今日もマルコ福音書から恵みをいただいていきたいと思います。

イエス様は5千人の給食の奇跡で興奮する群衆を解散させ、弟子たちを向こう岸へと渡らせ、ご自分は祈るために山に登られます。

群衆が弟子たちをも巻き込んでイエス様を王としてローマに立ち向かおうとする動きを意識的に押さえ込んだのではないかと思います。

そんなことになればこれから十字架と復活によって人々を罪から救うというご自分の使命を果たすことができなくなるからです。イエス様は弟子たちが神のことを思うのではなく人のことを思ってしまわないようにとても用心しておられることが分かります。

私たちも弱いものなので、十分に祈っていないとすぐに神のことではなく人のことを思って、人の思惑や人の期待に振り回されて神の御心を行えなくなってしまうのです。

弟子たちは向こう岸へと渡る舟の中で再び嵐に苦しめられます。この時は舟の中にはイエス様はいません。弟子たちはますます不安になったのではないかと思います。

そんな嵐の中でイエス様が湖の上を歩いて弟子たちに近づかれるのです。弟子たちはイエス様を見て「幽霊だ!」とパニックを起こします。イエス様が近づいているのに幽霊だと震え上がってしまうのです。今、読むと笑い話のような話ですがそれがまた不信仰な私たちの姿でもあるのです。

弟子たちはイエス様の数々の奇跡を見てきました。イエス様が嵐を静められるのも見て、イエス様が5つのパンと2匹の魚から5千人を食べさせる奇跡をも見てきたのです。

しかし彼らの心は頑なで悟ることができず、イエス様が湖の上を歩くことができるということは想像することもできなかったのです。弟子たちはどれほど奇跡を体験してもイエス様が全能の神の御子でありメシアであり創造主であるということが分からなかったのです。

イエス様はこのように頑なで心が鈍くなっている弟子たちに嵐の湖の上を歩くという奇跡を通してご自身の栄光を現し、ご自身をより深く知ることができる恵みを与えてくださったのです。

弟子たちのそばを通り過ぎるおつもりであったとあるのは旧約聖書に基づいてご自分を弟子たちに表わされたことを意味しています。

主なる神はモーセの前をも通り過ぎました。

[出エジプト記 33:21,22,23]

また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」

また主なる神はエリヤの前をも通り過ぎたのです。

[列王記 第一 19:11,12]

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。

「わたしだ。恐れることはない」とイエス様は言われましたが、主なる神の御名は「わたしはある」でした。

[出エジプト記 3:14]

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

さらにモーセは海を分ける奇跡を行ったのですが、イエス様はそれ以上の嵐の湖の上を歩かれたのです。イエス様はこのように嵐の湖の上を歩かれる奇跡を通してご自分が主なる神、ヤハウェなる神であり、どんな嵐の中からも救い出すことができる全能の救い主であることを教えられたのです。

私たちが体験する嵐もまたそのように新しく主を知ることができるチャンスともなっていきます。あらゆる問題、困難は主がどれほど偉大で力のある救い主であるかを知っていくチャンスともなっていくのです。

しかし私たちもまで弟子たちと同じで心頑なで不信仰に陥りやすい者です。それゆえいつも御言葉を聞いていなければならず、いつも祈っていなければならないのです。

[マルコの福音書 6:51,52]

そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。

そうでないと私たちも嵐の中で主が近づいているのに恐れてパニックを起こしてしまうからです。罪を持って生まれた人間は自然にしているなら頑なで不信仰になる一方なのです。

そのような生まれながら罪の性質を持つ私たちが信仰を保ち、それを成長させるためには絶えざる祈りと御言葉によって信仰を訓練していくことしかないのです。

大小の嵐を通していつも新しく主とその偉大な力を知る者となることを祈り求めていきたいと思います。

今日の祈り
主よ、不信仰で頑なな者を憐れんでください。嵐を通して主と出会い、主をより深く知ることができる信仰を与えてください。

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