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狭い門から入る

[列王記 第一 22:26,27,28]

イスラエルの王は言った。「ミカヤを捕らえよ。町の長アモンと王の子ヨアシュのもとに連れて行き、王がこう命じたと言え。『この男を獄屋に入れ、私が無事に帰るまで、わずかなパンと、わずかな水だけ与えておけ。』」ミカヤは言った。「もしも、あなたが無事に戻って来ることがあるなら、主は私によって語られなかったということです。」そして、「すべての民よ、聞きなさい」と言った。

今日の聖書箇所
I列王22:13〜28

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

北イスラエルの王アハブと南ユダの王ヨシャファテの前で400人の預言者たちがアハブが喜ぶような勝利の預言ばかりを語っていました。ヨシャファテ王はそれに疑問を感じて、別な預言者を求めます。

そこでアハブはミカヤという自分に都合の悪いことばかりを預言する預言者を呼び出すのです。ミカヤはアハブの宦官が王のご機嫌とりのような言葉を語るように勧めるのですが、主が語られることだけを語ると宣言します。

ミカヤはアハブの前で最初、アハブが勝利すると語るのですが、これは皮肉です。

[列王記 第一 22:15,16]

彼が王のもとに着くと、王は彼に言った。「ミカヤ、われわれはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」彼は王に答えた。「あなたは攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」王は彼に言った。「私が何度おまえに誓わせたら、おまえは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」

明らかに偽りを言うことで自分が語る預言が真実であることを印象づけたのです。そしてミカヤは真実を語ります。それはイスラエルは敗北すると言うこと、そしてアハブが死ぬと言うこと、しかしイスラエルの民は主が守られると言うことでした。

[列王記 第一 22:17]

彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」

さらにミカヤは見えない天で起こっていた神の会議の様子を知らせることで、そこにいた預言者たちが皆、偽りの預言を語っている偽預言者であることを明らかにするのです。

[列王記 第一 22:19,20,21,22,23]

ミカヤは言った。「それゆえ、主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そして、主は言われました。『アハブを惑わして攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせるのはだれか。』すると、ある者はああしよう、別の者はこうしようと言いました。ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言うと、主は彼に『どのようにやるのか』とお尋ねになりました。彼は答えました。『私が出て行って、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』主は『きっとあなたは惑わすことができる。出て行って、そのとおりにせよ』と言われました。今ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に、偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」

この箇所は難解な部分です。主なる神が偽りを言うことがあるのか?という疑問を持たせるからです。しかしそうではありません。主なる神、唯一の神は決して偽りを言うことはないのです。

[民数記 23:19]

神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

偽りを言う霊はサタンです。主なる神はそのサタンの働きをも用いてご自身のご計画を実現される絶対的な主権者であると言うことです。

そしてここで主はミカヤを通してサタンの偽りを明らかにすることで、アハブになお偽りと真実のどちらを選ぶか選択のチャンスを与えてくださっているのです。そしてこれが最後のチャンスでした、

アハブはこのように主の憐れみによってサタンの偽りの策略まで明らかにされたのですが、自らサタンの偽りを信じて、滅亡へと向かっていくのです。アハブは肉の欲の奴隷になっていたので、偽りから離れることができなかったのです。

[ヤコブの手紙 1:13,14]

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。

ただ一人、真実を告げたミカヤは偽預言者とアハブから迫害を受けます。しかしそれに屈することもなく、堂々と神の言葉は必ずその通りになると宣言するのです。

神の言葉を語ることも、神の言葉を聞くことも簡単ではないのです。神の言葉は私たちの肉には心地よいものではなく、怒りや反発を招くものだからです。それゆえ神の言葉を語り、神の言葉を聞こうとするなら狭い門から入る覚悟が求められます。

私たちはどんな言葉を求めているでしょうか?自分の肉の感情と欲を満足させる言葉、一時的な慰めや一時の安心感を与える言葉を求めているでしょうか?しかしそういった言葉については十分に用心し、警戒しなければなりません。その多くが偽りだからです。

次の御言葉を心に留めて、神の言葉を聞いて、神の言葉を語るという狭い門から入り、永遠のいのちへの道、真理による自由への道まっすぐに歩んでいきたいものです。

[テモテへの手紙 第二 4:3,4]

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

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