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高慢は破滅に先立ちます
[オバデヤ書 1:3,4]
岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──主のことば。
今日の聖書箇所
オバデヤ1:1〜14
今日はオバデヤ書から恵みをいただいていきたいと思います。
オバデヤ書はユダがバビロンに捕囚された時期、BC605年〜586年くらいの時期に書かれたと思われます。その内容はユダの兄弟国でもあったエドムの罪とそれに対する神の裁きです。
エドムという国はヤコブの兄弟、エサウから始まっています。イスラエルとは兄弟国でありながら、イスラエルとの間に多くの葛藤と衝突が繰り返されてきました。
ユダがバビロンによって捕囚され神に裁きに会うと、エドムはそれを思い切り嘲り、他の周辺諸国と共にユダに侵入して多くのものを略奪したのです。
ユダの人々にとってそれは耐え難い悔しさを与える苦しみでした。主なる神はユダの罪をも裁かれたのですが、その時はおごり高ぶり、自分を誇っていたエドムの罪をも必ず裁かれることを語られるのです。
エドムはどうしてそのようにおごり高ぶっていたのでしょうか?
第一にエドムは山地の自然の要害に囲まれていたので敵に攻められることがないと高ぶっていたのです。しかし主なる神はどんなに高い所に住んで、岩の裂け目に隠れていたとしてもそこから必ず引きずり下ろすと言われるのです。
第二にエドムには知恵ある者が多くいて諸国との交易によって多くの富を得ていたので高ぶっていたのです。しかし主なる神はどんなに財宝を蓄えて、それを隠していたとしてもそれらは必ず奪われていくと言われるのです。
[オバデヤ書 1:5,6]
盗人がおまえのところに来るなら、しかも夜に、荒らす者が来るなら、──いかに、おまえは荒らされることか──彼らは欲しい分だけ盗んで行くではないか。ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。ああ、エサウは捜し出され、その秘宝は見つけ出される。
第三にエドムには多くの同盟国があり、多くの味方がいたので高ぶっていたのです。しかし主なる神はそれらの同盟国がエドムを裏切り、見捨ててしまうと言われるのです。
[オバデヤ書 1:7]
おまえと同盟を組む者たちがみな、おまえを国境まで送り返し、親しい友がおまえを欺いて征服する。おまえのパンを食べていた者が、おまえの足もとに罠を仕掛ける。こんなおまえに英知はない。
エドムは安全な環境、豊かな富、そして多くの仲間がいるので自分たちには主なる神など必要ない、主なる神などいなくても自分たちはこんなに栄えているし、安全だ、しかし主なる神を頼っていたユダはこんな悲惨なことになったとユダを嘲り、倒れたユダに侵入して略奪の限りを尽くしたのです。
このようなエドムの高慢と無慈悲で残酷な行いに対して主なる神はそれを必ず裁くと言われるのです。エドムの高慢は自らの破滅を招くことになるのですが、当の本人は全くそれが分からないのです。
私たちもまた健康と安全、豊かな富、そして多くの友人や仲間と言ったことですぐに高慢になってしまう者であることを知らなければなりません。高慢の最も恐ろしいところは自分が高慢になっていることが分からないというところなのです。自分なんて大した者ではありませんと言っている人が謙遜なのではありません。また神を、イエスを信じていると言っていれば謙遜なのでもありません。私たちが祈らなくなっているならそれは高慢になっているということなのです。
祈らない人は祈らなくても、神の助けなどなくても自分はやっていけると思っているので祈らないのです。神の助けがないと自分は生きていけないと思う人は必ず祈るのです。祈ることが良いことだから祈るのではなく、祈って神の知恵と力をいただかなければ生きることができないと知っているので祈るのです。
箴言にはこのようにあります。
[箴言 16:18]
高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。
高慢になると神を信じているという人でも他の人を批判したり、裁いたり、干渉したり余計なことはするのですが、真実に礼拝することも、祈ることもなくなっていくのです。そのように人の不幸を見て裁き、批判し、慢心しているならある日、突然災いと破滅が自分にも襲ってくるようになるのです。
私たちはそうなることのないように絶えず跪いて主なる神に祈る者となりたいと思います。他の人の不幸を喜ぶのではなく、自分にできることで助ける者となりたいと思います。絶えず礼拝して主の御言葉を聞いて悔い改め、絶えず祈ってあらゆることで主により頼む人こそ謙遜な人なのです。
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