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侮辱されても祝福で返す

[ペテロの手紙 第一 3:8,9]

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

今日の聖書箇所
Iペテ3:1〜12

今日もペテロの手紙から恵みをいただいていきたいと思います。

迫害という試練の中にある聖徒たちに使徒ペテロは救われた者として聖なる家庭を築き上げるようにと勧めます。

まず信仰を持っていない夫を持つ信者である妻に対して行いを通して夫が福音に心を開くように最大限に努力をするようにと勧めるのです。

[ペテロの手紙 第一 3:1]

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。

また夫に対しても信仰によって永遠のいのちを受け継ぐ者として妻を尊敬するようにと勧めます。

[ペテロの手紙 第一 3:7]

同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。

古代の時代ですから男女差別は今とは比較にならないほど激しかったのです。そのような時代的な背景を考えるなら、このような教えは当時の文化をいかに乗り越えていたものであるかが分かります。

使徒ペテロは家庭の問題も、夫婦の関係も全てを天の視点から見るようにと教えているのです。

何よりも大切なことは魂の救いなのです。夫が未信者であるならばまず何よりも夫の魂の救いを最優先に考えなければならないということです。それ以外のことに心奪われ、夫に不満をぶつけたり、喧嘩をしたり、反抗してしまうなら夫が救われる可能性はどんどんと少なくなってしまうからです。

当時は夫がクリスチャンになればほぼ自動的に妻もクリスチャンになったのですが、それゆえ夫にも妻の信仰的霊的な成長に最大限の仕えるようにと勧めるのです。

永遠のいのちと天の御国、魂の救いが何よりも重要なので、そのために余計なことで相手に躓きを与えないようにということです。私たちはそのような天の視点から夫婦の関係や家庭のことを考えているでしょうか?

何としても夫を妻を、そして子どもたちさらには両親、祖父母などを信仰へと導きその魂が救われることを願っているでしょうか?元気で生活してくれていればそれでいいとか、元気で働いてくれていればそれでいいとか、そんなふうに思っているならば、それは悪魔によってすっかり霊的に眠り込まされてしまっているのです。

家族と共に過ごせる年月は限られているのです。そしてそれは日々短くなっているのです。そうであるならば私たちは切なる心で家族の救いを祈り、そのためにできることはどんなことでもするべきではないでしょうか?

また永遠のいのち、永遠の祝福を受け継ぐことを確信している者は自分に対して悪を図り、自分を侮辱する者にさえ憐れみの心を持つことができるようになります。

そんな罪の中にいる者たちの永遠の行き先は永遠の滅び、地獄の刑罰が待っているだけだからです。また私たちが相手を憎んだり、罵ったり、侮辱したりするならそれは私たちの永遠の御国での傷となり、汚点となってしまいます。それゆえ天の御国への巡礼者である救われた聖徒はそんなことはしないのです。

救われた聖徒は侮辱されても、罵られても、肉によって同じような対応をするのではなく、そんな相手を憐れむ主の心で祝福するのです。その相手の魂が地獄に行かないように祈るのです。それが自分の魂を汚さないことであり、自分の魂を守ることだからです。

このようなことは単なる倫理道徳でできるようなことではないのです。救われて永遠の天の御国の視点を持つ者だけができることなのです。

敵を愛するとか迫害する者のために祈るとか、そんなことは我慢してできることでも、倫理的道徳的に良いことだからできることでもないのです。それは救われて永遠のいのちと天の御国での報いと冠を確信している者だけができることなのです。

敵を愛し、迫害する者のために祈るのはそれが結局は自分の祝福となって帰ってくるからです。それが永遠の祝福、天での報いと冠として帰ってくることを知っている者だけができることなのです。

私たちにはそのような天の視点、天国信仰があるでしょうか?日ごとの生活の中で自らの信仰を点検していきたいものです。

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