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祈りは問題解決のためにするのか?

[列王記 第二 3:14,15,16,17]

エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。しかし今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』

今日の聖書箇所
II列王3:13〜27

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

イスラエルの王、アハブの子ヨラムはモアブの反逆に対してユダとエドムと連合軍を形成して立ち向かおうとします。ヨラムはアハブほどではないですが、相変わらず偶像崇拝を続けています。

モアブとの戦いに行く時にもイスラエルの神、主なる神の導きや指示を求めたわけではなく自分で考えて決めてそうしたのです。しかしその戦いに行く途中で水がなくなるという危機に直面するのです。それは主なる神とは全く関係のない出来事でした。しかしヨラムはそれを主なる神のせいにするのです。

[列王記 第二 3:13]

エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」

人は主なる神とその御言葉と無関係に生きていながら、何か問題が起こると神が悪い、神のせいだと神を恨むことが多いものです。人の罪とはこのような自己中心で身勝手な態度に現れるのです。

この危機の中でユダの王ヨシャファテは主なる神の御言葉を求めます。ヨシャファテは主なる神を畏れる信仰をもっていたからです。しかしヨシャファテには悪しき偶像崇拝者であったアハブ一族と姻戚関係を結んでいたという不従順があり、この戦争についても主なる神の指示を仰いだとは記されていません。

ヨシャファテにもこのような多くの隙があったのですが、それでも主はエリシャを通してヨシャファテに御言葉を与え、イスラエル連合軍に救いを与えてくださるのです。エリシャは水がなく死に直面していたイスラエル連合軍に超自然的な奇跡によって水が与えられること、さらにはモアブとの戦いでイスラエル連合軍が勝利することを預言します。

[列王記 第二 3:18,19,20]

これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。
あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」朝になって、ささげ物を献げるころ、なんと、水がエドムの方から流れて来て、この地は水で満たされた。

主なる神は人がどんな理由であれご自身を求める時に憐れんで助けてくださるのです。それを通して人がご自身を知り、悔い改めてご自身との交わりを持つようになり、ご自身との関係を築くことを願っておられるからです。

それゆえどんなに身勝手で自己中心的な動機であっても主なる神はご自身を求めて祈る時にその祈りに答えてくださるのです。

しかし祈りが答えられて問題が解決してそれで終わってしまうならその祈りには何の意味もなくなってしまいます。その祈りが答えられた経験を通して主なる神を知り、その御言葉に従う者へと変えられていかなければなりません。

この場面ではイスラエル連合軍に水が与えられ、またモアブとの戦いでも勝利は与えられたのですが、それは完全な勝利ではありませんでした。追い詰められたモアブの王が自分の長男を偶像に生け贄として捧げると怒りが下ってイスラエルは退却することになるのです。

[列王記 第二 3:26,27]

モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たせなかった。そこで、彼は自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げた。このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった。そこでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。

モアブの軍隊はこのような恐ろしい生け贄まで捧げたことでイスラエルに対する怒りに満たされ、イスラエル連合軍は偶像による呪いを恐れて退却してしまうのです。イスラエルは確かに勝利したのですが、信仰も祈りもないイスラエルは完全に勝利することはできなかったのです。

これら一連の出来事を通して主なる神は恵みと戒めの双方を与えているのではないかと思います。イスラエルの王に問題の解決だけを求めるご利益信仰で終わるのではなく、継続的にご自身を求める交わりの信仰、主を愛する信仰が必要であることを教えられたのではないでしょうか?

勝利は与えても完全な勝利を与えないことで主なる神はご自分から離れていかないことを願っておられたのではないかと思います。

使徒パウロにもとげが与えられたとあります。そのとげは使徒パウロが高慢になって主から離れないための愛のとげでした。

[コリント人への手紙 第二 12:7]

その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

私たちも祈って問題が全て解決するならどうなってしまうでしょう?すぐに高慢になって主から離れてしまうのではないでしょうか?それゆえ祈り続けなければならないいろいろな問題、愛のとげが許されていくこともあるのです。それは罰ではなく愛ゆえの戒めです。それを通して主は私たちがただのご利益信仰にとどまるのではなくご自身を愛する信仰へと成長していくことを願っているのです。

祈りが答えられ問題が解決していくだけならその祈りには何の意味もありません。どんなに問題が解決してもそれが霊的な祝福と霊的な成長をもたらすことはないからです。

祈りが答えられて私たちが主ご自身を求め、主を愛する者となっていく時、その祈りは本来の目的を達成したのです。祈りの目的とはその答えにあるのではなく、神との関係にあるからです。

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