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人生に疲れきった時

[列王記 第一 19:8,9,10]

彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

今日の御言葉
I列王19:1〜10

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エリヤはカルメル山での戦いで天からの火が降り大勝利を収め、そしてその祈りを通して干ばつだったイスラエルに大雨が降るという主の奇跡も起こりました。

エリヤはこれだけの御業が現れるならイスラエルの民もアハブとイゼベルも偶像崇拝を悔い改め、主なる神に立ち返ってくるだろうと思っていたのではないかと思います。

しかしアハブの妻イゼベルは悔い改めるどころか、ますます心を頑なにしてエリヤを必ず殺すと脅迫してきたのです。

[列王記 第一 19:1,2]

アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

エリヤはカルメル山での戦い、また大雨を求める祈りの戦いの中であらゆる力を使い尽くしていました。何よりも霊の力を振り絞って戦い、精神力も体力も全て使い切っていたのです。

そのように疲れ切って弱っているエリヤはイゼベルは何一つ悔い改めることなく、自分を殺すことに執念を燃やしていることを知るのです。偉大な預言者、力ある神の人であったエリヤも遂に精魂尽きて倒れてしまいました。

自分がいのちをかけて戦った結果が、イゼベルによるさらなる偶像崇拝と自分への殺意であることを知ったエリヤはとうとう燃え尽きてしまいました😢深い失望落胆と共にエリヤは自分の死を願います。

[列王記 第一 19:3,4]

彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

エリヤはもう自分にはどうすることもできないと信仰もほとんど失ってしまったのです。エリヤはどれほど辛かったことでしょう🥲エリヤはどれほど苦しく、悲しかったことでしょう😢

主の働きをなしたことがある人なら、このエリヤの辛さ、苦しさ、悲しさに共感できるのではないでしょうか?主の働きをするとき、やってもやっても何の結果も出ず、かえって悪くなる一方であるように感じられる時があるからです。主の働きをなした人なら燃え尽きてしまったり、燃え尽きそうになってしまうことがあるからです。

偉大な預言者、モーセと並ぶ神の人であったエリヤもまた一人の弱い人間であったのです。

主なる神はこのように倒れてしまったエリヤに心身の癒しと霊的な回復を与えていかれます。主なる神は「何やっているんだ!」と叱咤激励するのではなく疲れ切って燃え尽きたエリヤを優しく包み込むのです。

主はまずエリヤの疲れた体を癒し、強めてくださいます。

[列王記 第一 19:5,6,7]

彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。

そして主なる神はエリヤをご自身の臨在と御言葉の中へと導かれるのです。

[列王記 第一 19:8]

彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。

神の山ホレブはかつてモーセが神と出会っい使命を受けた場所であり、モーセが十戒という神の御言葉を受けた場所です。

主なる神はエリヤをその聖なる臨在の中へと導き、その御言葉を与え、御声を聞かせてくださることで再び立ち上がらせてくださるのです。

主の臨在とその御言葉によってエリヤの弱りきっていた霊は再び生き返っていくことになるのです。

信仰者の歩みの中にも燃え尽き、疲れきって倒れてしまうことがあります。いつまでも変わらない現実に信仰を失いかけてしまうことがあるのです。

そんな時はまず体をケアすることが必要です。しかしそれだけでは回復することはできません。霊的な回復が必要なのです。そのためには主の臨在の中に浸り、その御言葉を受け取っていかなければなりません。そのようにして弱りきってしまった霊が回復し、信仰が回復していく時、魂も体も回復し、再び主からの使命に立ち上がることができるのです。

信仰生活が燃え尽きそうになっておられるでしょうか?人生に疲れきっておられるでしょうか?主の優しい招きの御声を聞いて、主の臨在とその御言葉による癒しと
回復をいただいていきましょう。

[マタイの福音書 11:28,29,30]

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

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