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信仰とは神の存在ではなく神の言葉を信じること

[列王記 第二 7:18,19,20]

かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。

今日の聖書箇所
II列王7:11〜20

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エリシャはサマリアの大飢饉は一夜にして解決すると預言しましたが、事態はその通りに動いていくこととなりました。

主がアラムの陣営に軍馬の響きを聞かせたゆえにアラムの軍は食糧も武器も置いたまま逃げ出し、ツァラアトに冒された4人の者がそれを発見しました。この4人の者に良き知らせを聞いた王はそれを信じようとはせず、それはアラムの陰謀だと疑うのです。

イスラエルの王はエリシャによる預言、神の言葉を聞いており、その御言葉がその通りに実現していっているのですが、それを信じようとはしないのです。これが罪によって神を信じることができなくなっている者に姿なのです。

神の言葉を聞いても信じませんし、神の言葉が実現してもなお信じようとはしないのです。あらゆる理由を考え出して神の言葉を信じようとはしないのです。

しかし私たちが信じようよ信じまいと神の言葉は必ずその通りに実現し、成就していくことになります。

[列王記 第二 7:16]

そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。

イスラエルの王は不信仰でした。しかし王の侍従はただ不信仰なだけではなく神の言葉に挑戦する者でした。エリシャの預言を聞いた時にそれを真っ向から否定し、神の言葉を嘲りました。この侍従は油注がれた預言者エリシャの前で、そして神とその御言葉の前でどこまでも高慢で頑なだったので神の言葉に挑戦していったのです。そしてその刈り取りをすることとなってしまいました。

[列王記 第二 7:2]

しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

このように神の言葉を否定し、それに挑戦していったこの侍従は神の豊かな恵みを味わうことなく門に殺到した人々に踏みつけられて死ぬと言う悲惨な最後を迎えることとなってしまいます。そしてそれもまたエリシャの預言の成就でした。

信仰がなくては神に喜ばれることはありません。信仰とは神が語られた御言葉通りに成し遂げられ、御言葉通りにご自分に求める者に報いてくださることを信じることなのです。

[へブル人への手紙 11:6]

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

どうすればそのような信仰を持つことができるのでしょうか?それは祈って神の言葉を聞き続けることしかありません。

イスラエルの王もその侍従も偶像崇拝に深く関わっていたため神の言葉を聞いてもそれを全く信じることができなくなっていたのです。偶像崇拝は私たちの心を頑なにし、私たちの心を石のように硬くしていくのです。

それゆえ私たちは霊的実際的な偶像崇拝の罪を悔い改め、心砕かれて神の言葉を神の言葉としてそのまま信じる信仰をいただけるよう祈りたいと思います。

神の御前に幸いな者とは神の言葉は必ず実現すると信じきる者だからです。そのような者こそ信仰による神の豊かな恵みに満たされ、創造的な神の奇跡を体験する者となっていくからです。

[ルカの福音書 1:45]

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

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