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神を愛する人と神を利用する人

こういうことをおまえはしてきたがわたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる。神を忘れる者どもよさあ このことをよくわきまえよ。そうでないと わたしはおまえたちを引き裂き救い出す者もいなくなる。

今日の聖書箇所
詩篇50:16〜23

今日も詩篇50篇から恵みをいただいていきたいと思います。

ここでは偽りの信仰者、偽善的な信仰者に対する神の怒りと裁きが語られています。

多くの生け贄を捧げ、神を礼拝しているかのように見えながら、平気で罪を犯して何も恐れない人たちがいたのです。

そのような人たちは神と律法について人々に語り、教えることまでしていたのです。

[詩篇 50:16,17]

しかし 悪しき者に対して神は仰せられる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語りわたしの契約を口にするとは。おまえは戒めを憎みわたしのことばをうしろに投げ捨てた。」

そのような者たちは信仰があるかのように見せかけて人々を信用させ、その裏では悪と貪欲をむさぼっていたのです。

徹底的に神を自分の肉の欲のために利用する人たちでした。そのような人たちも自分は神を信じている者だと思い込んでいたのです。生け贄だって捧げている、礼拝もしてる、神の戒めも知って教えている、だから自分は大丈夫、少しぐらい間違ったことがあっても神は愛だから赦してくれる、見逃してくれると思い込んでいたのでしょう。

それに自分は今も元気で守られている、神は私を何も責めたり、懲らしめたりしていないから大丈夫だと思っていたのでしょう。

しかし遂に神の忍耐の時が終わり、裁きの時が来てしまいました。その時には全ての悪が一つも漏れることなく突きつけられて裁かれることになったのです。

イエス様に最も敵対していったのはこのような自分では信仰があると思い込んでいたパリサイ人や律法学者などの偽善者たちでした。そのような者たちも金と名誉が好きで、この世が好きで、神を最大限に利用して金と名誉を追い求める貪欲な者たちでした。

イエス様は「災いだ、呪われた者たち、偽善の律法学者、パリサイ人たち」とその罪を厳しく責められて悔い改めを迫りました。

このように神を利用する者たちも最初からそうだったのではないと思います。最初は真実な信仰だったのではないでしょうか?

しかし信仰生活を続けている中で信仰が初めの愛を失い、いのちを失い、宗教化し、形骸化し、この世化して変質、腐敗してしまったのではないでしょうか?

そして現代の私たちにもいつもその危険性があることを忘れてはなりません。

最初は神の恵みに感動して神を愛していたのにいつのまにかすっかり感動もなくなり、神を利用して自分の肉の欲を満たしてしまうようになるのです。

しかし本人には全くその自覚がなく自分は神を信じていると思い込み、よくやっていると思い込んでしまうのです。

こうならないためには絶えず祈りとみことばによって照らされ、そのたびに悔い改めて自分の霊を生かし、聖め続けていくしかありません。

また神を愛する人たちとの交わりを保つことです。神を愛する信仰者たちと交わっていくと自然に神を愛することを求めるようになり、神を利用して何も感じなくなってしまった人たちと交わっているとそれが当たり前になってしまうのです。

信仰生活はもうこれでいいと思ったところから堕落し始め、どこまでもどこまでも向上したいという思いがある時、限りなく成長していくことができるのです。

向上一路、このスピリットが成功的な信仰生活、成功的な人生の鍵なのです。

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