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神が敵に見える時にも神にすがりつく人

[列王記 第二 4:25,26,27,28]

こうして彼女は出かけて、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに言った。「見なさい。あのシュネムの女があそこに来ている。さあ、走って行って彼女を迎え、言いなさい。『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と。」彼女はそれにこう答えた。「無事です。」それから彼女は山の上にいる神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠し、まだ私に知らせておられないのだ。」彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」

今日の聖書箇所
II列王4:18〜37

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

シュネムの女はエリシャを通した主の奇跡によって不妊が癒やされ、子どもが与えられました。ところが主によって与えられた子がある日、突然亡くなってしまうのです。熱中症か脳性マラリヤのようなものではないかと推測されています。

これはあまりにも悲惨な出来事です。なぜ主の奇跡によって与えられた子がこのように死ななければならないのでしょうか?主は恐ろしい意地悪なお方なのでしょうか?こんな理不尽で不条理なことがあるでしょうか?

このような時に信仰者は最大の試練に直面します。神への信頼が崩れ、神への怒りと恨みに飲み込まれそうになるからです。そのようにして神から引き離し、信仰を破壊し、神を呪わせて喜ぶ存在は誰でしょうか?そうです。悪魔です。

このような出来事の背後には悪魔がいて信仰者を激しく揺り動かして滅ぼそうとしているのです。しかしこのシュネムの女はこの最大の危機をますます一筋に主を求めることで大きな勝利へと変えていただくのです。

このシュネムの女にはどのような信仰があったのでしょうか?

第一に人の助けを求めるのではなく主だけに解決を求めていきました。

[列王記 第二 4:20,21,22,23]

若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」すると彼は、「どうして、今日あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は「かまいません」と答えた。

シュネムの女は自分の子が死ぬとその子をエリシャが寝ている寝台に乗せ、神の人エリシャに会いに行くのです。その際、自分の夫にも子どもが死んだことさえ言わないのです。「かまいません」という言葉は「シャローム」です。主なる神だけが平安を与えてくださると確信していたのでしょう。シャロームは神との関係の中であるべき本来の状態にあるということです。子どもは死んだがエリシャを通してイスラエルの神がこの子をあるべき状態に戻してくださると確信し、信じていたのではないでしょうか?

またエリシャの付き人ゲハジに会った時にも何も言わないのです。ゲハジがあなたのお子さんは無事ですか?と聞いた時にも「無事です」と答えるのですが、この無事ですも「シャローム」です。

シュネムの女はこの問題を解決し、自分に平安を与えることができるのはただ油注がれた預言者エリシャだけ、つまりイスラエルの主なる神だけであることを知って、誰にも自分の問題も告げず、誰の助けも求めず、ただエリシャだけに、つまり主なる神だけに救いを求めるのです。

それゆえ夫にさえ心のうちを明らかにしなかったのに、エリシャに会うとエリシャにすがりついて自分の苦しみを告白するのです。当時、女性が男性の足にすがりつくというのは大変失礼な行動でした。シュネムの女がエリシャにすがりついて嘆きを訴えたのはまさに主なる神だけにすがりついて、主なる神だけが自分の苦しみと痛みを解決することができるという信仰の表現でもありました。

第二にいつも主を求める信仰がありました。

シュネムの女はエリシャがカルメル山にいることを知っていました。そして新月祭や安息日にはエリシャのところを訪れ、礼拝を捧げ、神の御言葉を聞いていたのでしょう。

そのように普段から主とその御言葉を求める信仰があったのでいざという時にも一筋にどこまでも主を求めて、主による解決をいただくことができたのでしょう。

そもそも自分に子どもが与えられたのは主なる神による奇跡でした。それゆえその子が死んでも再びいのちを与えることができるのも主なる神だけだと信じることができたのではないでしょうか?シュネムの女はこのように信仰を成長させ、いざという時にも信仰を適用、応用することができるようになっていたのです。

第三に主の臨在と御言葉を求める信仰がありました。

[列王記 第二 4:29,30]

そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」
その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

シュネムの女はゲハジがエリシャの杖を当てるだけではダメだと分かっていたのです。エリシャが直接その場に来て、エリシャが神の言葉を語るなら神のいのちの働きが起こることを知っていたのでしょう。それゆえどうしてもエリシャを連れて行こうとしたのではないかと思います。そのように主の臨在と御言葉だけがいのちを与え、奇跡を起こすという信仰があったのです。

エリシャは切に祈り、この子を甦られせます。

[列王記 第二 4:33,34]

エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。

これはまるでエリシャが自分のうちにある主の霊、主のいのちをこの子に与え、この子を束縛していた死の力を自分が身代わりに引き受けるような行動です。このエリシャの姿こそまさしく私たちの罪と死と呪いを身代わりに十字架で引き受け、そして私たちにご自身の血潮といういのちを与えてくださったイエス・キリストを指し示しているのではないかと思います。

私たちはいざという時に信仰を働かせることができる状態になっているでしょうか?また人の助けではなく神だけに救いを求める信仰があるでしょうか?全く理解できない時にも躓き、退くのではなく、ますます神に求めていく信仰があるでしょうか?そのような信仰があるなら主は死の力を打ち破る復活の力を持って答えてくださることでしょう。

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