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どのような祈りが答えられるのか?

[列王記 第二 20:1,2,3,4,5,6]

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」ヒゼキヤは顔を壁に向け、主に祈った。「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」

今日の聖書箇所
II列王20:1〜11

今日も列王記から恵みをいただいていきましょう。

一難去ってまた一難という言葉がありましが、アッシリアの大軍に取り囲まれるという国家的な危機をようやく乗り越えたヒゼキヤにまた試練が許されていきます。

今度はヒゼキヤが死の病にかかってしまうのです。アッシリアの大軍の長期間取り囲まれたことはヒゼキヤに相当のストレスを与えたに違いありません。もしかしたらそのような強度のストレスで病気になってしまったのかもしれません。

そんなヒゼキヤに預言者イザヤは間もなくあなたは死ぬのでその用意をしなさいと語るのです。

ヒゼキヤはその神の言葉を聞いて絶望することも、諦めることも、神を恨むこともなく再び切なる心で祈り始めるのです。

ヒゼキヤはどんなにひどい状況でも神の愛と憐れみにすがりつく信仰があったのです。これが祈りの答えを受け取る鍵になっていくのです。

ヒゼキヤは試練に次ぐ試練の中で神を恨んでも何もおかしくありませんでした。また自己憐憫に陥り、不信仰になり、自暴自棄になっても不思議ではなかったと思います。

ところがヒゼキヤは神を恨まず、その愛と憐れみを信じて本気になって祈り始めるのです。どんなに悲惨で希望のない状況の中でも尽きることのない神の愛と憐れみを信じて諦めずに祈る者がその祈りの答えを受け取っていくのです。

またヒゼキヤはそれまでの人生を振り返りながら、自分に注がれた恵みを思い出し祈っているのです。

自分が真実に主を求めていった時に主がどれほどそれに応えて下さったか、その信仰の生涯を振り返りながら祈っているのです。一見するとヒゼキヤは自分の信仰や行いを誇っているかのように見えますが、アッシリアの攻撃から奇跡によってユダを救い、宗教改革をなした時に国を繁栄させ大きく祝福して下さった生けるを思い出し、信仰を奮い立たせていたのではないかと思います。

そうでなければ主がその祈りに感動され、ご計画を変えてまでその祈りに答えてくださることはないはずだからです。高慢な祈り、自分の行いを自慢するような祈りに主が感動されることはありません。主は謙遜な信仰の祈りに答えてくださるのです。

主なる神はそのようなヒゼキヤの祈りに答えてもう15年、寿命を延ばすと約束してくださり、それが必ず実現するしるしとして日時計の影を十度後ろに戻るという特別な奇跡まで現してくださいました。

これもまた信仰にしっかりと立ち続けることができるようにという主の憐れみではないかと思います。

私たちの人生もまた一難去ってまた一難と困難と戦いが続く時があるものです。そんな時も神を恨まず、諦めず、自己憐憫に陥らずに神の愛と憐れにすがりついて祈りたいと思います。

またそんな時はそれまで祈りが答えられた恵みの記憶を思い出しながら、また聖書や信仰の人々の祈りの応答の記録を思い出しながら、祈りは答えられるという応答の信仰を建て上げて祈る者となりたいと思います。

本当に答えられるかと疑いながら祈るのと必ず祈りは答えられると応答の信仰をもって祈るのではその結果が全く違うからです。応答の信仰のない祈りはひとりごとや単なる気休めのようなものになりかねないからです。

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