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共にいるべき人と共にいてはいけない人

[列王記 第二 8:18,19,20]

彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主の目に悪であることを行った。しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。

今日の聖書箇所
II列王8:16〜29

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

エリシャと北イスラエルの歴史から南ユダの歴史へと場面が変わります。

信仰的で良い王であったヨシャファテでしたが、その息子ヨラムの妻に北イスラエルのアハブ王の娘アタルヤを迎えたことから南ユダ王国の歴史は暗転していくことになります。

アタルヤは父アハブ、母イゼベルと同じく強烈な偶像崇拝者でした😨ヨシャファテの息子ヨラムは父ヨシャファテの道、信仰の道に歩むことなく妻アタルヤに従いアハブの道、偶像崇拝の道を歩むことになってしまったのです。

ヨシャファテはその信仰のゆえに宗教改革をなし、それゆえに主なる神から大きな祝福と恵みを受け南ユダは強くなり、栄えることとなりました。しかしその子ヨラムが偶像崇拝の道にずれていくとそれらの祝福は全て失われていくこととなり、国力はみるみるうちに弱っていくのです。

それまでユダが治めていたエドムはユダに背きます。ヨラムはそのエドムの反逆に対して夜襲攻撃を仕掛けてエドムを懲らしめようとするのですが、反対にエドムの戦車隊に取り囲まれ、惨敗してしまいます。さらにリブナという地域もユダに背きユダの国土は削られていきます。

[列王記 第二 8:22]

エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。

ヨラムはエドムを懲らしめようと思ったのですが、反対に主なる神によって懲らしめられることとなってしまいました。主なる神はこのような懲らしめを通してヨラムに警告を与えて、偶像崇拝を悔い改め、ご自分のもとに立ち返ってくるようにと呼びかけているのです。

しかしヨラムはその警告を受け取ることはなく、偶像崇拝の道を歩み続け、息子アハズヤの代になるとさらに偶像崇拝はより激しくなり、南ユダはアタルヤによって乗っ取られることになってしまうのです。

もしヨシャファテがアハブの娘を嫁に迎えることがなければ、このように全てを失うことはなかったのではないかと思います。人は誰と出会うか、誰と共にいるかでその人生は全く違ったものとなってしまうのです。

信仰と祈りの人と出会い、共にいるなら霊的な祝福と守りを受けることになります。反対に偶像崇拝と肉の欲に満ちている人と出会い、共にいるなら与えられていた霊的祝福を全て失い、呪いと裁きを受けてしまうのです。

私たちには共にいるべき人と共にいてはいけない人がいるのです。信仰のある人と共にいる時に私たちの信仰は成長し、祈りの人と共にいる時に私たちは祈るようになるのです。どんなに信仰のある人でもこの世の人、肉の人と共にいるだけならその信仰は確実に失われていくことになっていきます。

私たちは自らの信仰と霊的ないのちを何よりも大切にして守っていかなければなりません。そのためには人間の情に流されずに共にいるべき人と共にいてはいけない人とを選んでいかなければならない時もあるのです。

誰と共にいるべきか、誰と共に歩むべきかを見分ける知恵を祈り求めていきたいものです。

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