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なぜ書くのか

自分の文章が好きではない。
日記は誰に見せるものでもないから気にしないし、なんせそのままを自分で書いてるのだから大体わかる。

noteでは読まれること、受け手を想像する。だからこそ、私はどんな主張、伝えたいメッセージ、どう受け取られるか、つきつめれば印象操作をしながら書く。

同じように私は文章を読むとき、そのカテゴリや内容・本かメッセージかに関わらずそこに書いてあることが何を伝えたいのか、この表現は何を意味しているか、裏側を想像する。
たとえばメッセージで「今日おそい?」ってきかれたら、ごはんを用意してるのかなとか何か予定があるのかなとか、受け取り手が無意識にしていること。

でもこれは主観でしかないから、それが正しいかなんてわからない。一方向で自分がただしいと、自分なりの正義をもつ人は強いけれど、それは周りが見えなくなる怖さがある。盲信してはいけないと思う。

繰り返すと私は自分の文章が好きではない。
今まで書いてきた記事を次の日読み返すことはできないし、一覧だってできるならすべて消しまいたい。できないのは今までを知ってほしいから。わがままだね。

単純に今の気持ちを知ってほしいと思うから、大切だと思う何かを書く。
今の気持ちは、時間が経てばすぐに忘れる。
香りや音楽・そのときと似た状況を用意したとて忘れる。

このツールを使おうと思ったのは
①価値観を広げて人とつながりたい
②自分の思考を残したい
というものだった。

しかし最近思うのが、価値観を広げるよりも私は同じ価値観をもつ人とつながりたいのでは?ということ。結局共感しあいたいんだなあ~ということ。

始めた最初のころは、自分の考えに妄信していたと思う。
妄信して自分に都合の良いようにとらえることは、限度はあっても心の健康という意味では大切だし、メタ認知もできていたと思う(自分で言うメタ認知ほど…)し、だからこそ自分の経験からの学びを書いていきたいと思った。

ただ、今より子供だった。考えているつもりでいた。でもまるっきり同じ人と関わっている人はいないし、まるきり同じ経験をしてきた人はいないように感じ方は想像できないくらいたくさんあると知った。今だってまだまだ変わらず子どもで、自分の考えがすべてだと思ってしまうことはある。

書いているのはいつもきれいごとばかりだ。私はこんなことを押し付けられるほどの人間なのかと。今日の私は卑屈すぎて、自分をことごとく否定したい気分になってる自覚はある。


しかしこんな風にマイナスな思考を吐き出せるようになったのは、SNSなど、色んな意味で自由な主張・多様性が広まったおかげだ。私は時代に乗っかっているだけにすぎない。もし今でなくてもっと昔に生まれていたら、マイノリティなんて許さない凝り固まった人間になっていた。現代病といえど、たくさんの言葉が生まれて、生きづらさが見えやすくなってきた今、言葉にすることが許されている今、本当に恵まれていると思う。でも、私が生まれる前や10年以上前に言葉にしている人はいたかもしれない。

リアルでいたい。そういう気持ちは変わらない。思っていることをそのままに残したい。それは承認されたいのか、続ける何か、続けた先の何かを得たいからなのか。

Drコトーの漫画に、つばを吐く少年がいる。その子は自分がいた痕跡を残すためにつばをところかしこに吐いていた。

私もそんなものなのかも。証を残したいだけの。

ただ、考え方って本当にたくさんあるのに、今使える語彙や知識の範囲でしか表現できない。あ、この言い方は今のわたしの気持ちにぴったりだ!と思っている、知らないだけで他にもきっと当てはまるものはある。書いている文章が本当に自分の言いたいことと合っているのか、そういうことを考えてしまう。

悲しいけど自分だけの言葉なんて存在しないし独創で作品はできない。何かの文章や人の話、口調、言い回し、映画や舞台、そういう毎日から得たもので私たちの考えや言葉・身の回りの物は埋め尽くされていく。過去の経験や周りの人から影響を受けている。なりたい理想があるなら身近におけ!悪口を言う人は自分も自然にその人の価値観が刷り込まれるようになるから離れたほうがいい、みたいな。

日本語じゃなくても言語じゃなくても色んな表現の仕方がある。もっともっとたくさんの表現、自分のしっくりくるものを表せるようになりたい。

書いていくうちにどんどん最初とずれたし言いたいことがまとまってなくてとっちらかった思考をぶつけてしまた。過去最高に長い。それでも読んでくださった方、本当にありがとうございます。




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