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エッセイ「鉄道員の子育て日記 ⑥タクヤの碁」

「負けました。」

 我が輩は、これ以上続けても逆転できる手がないことを悟り、その言葉を発した。「ありがとうございました。」お互いにきちんと挨拶をして対局を終えた。

 土曜日の午後、我が輩は自宅で息子と囲碁をしていたのである。そして今、負けたのである。それも”中押し”で。碁を嗜む方なら解ると思うが、一方的で屈辱的な負け方である。息子は、まだ小学二年である。碁のような頭を使う遊びで小さな子供に負けた時の「へこむ」気持ちというのを親なら解っていただけると思う。

 実家に帰省した時に、息子は祖父がやっていた囲碁に興味をもった。息子に引きずられるように我が輩も始めた。よほど気に入ったのだろう。祖父にもらった碁の雑誌の棋譜(プロ棋士の対局結果の手順を示したもの)を、祖父がするのをまねて一手ずつコツコツと番号順に並べていたが、そのうちに棋譜を見なくても一局、再現できるほどに覚えてしまった。初めて、そのことに気がついた時には、我が輩とかみさんは共にぶったまげたものである。祖父も嬉しかったのか、立派な碁盤と碁石を息子にプレゼントしてくれたぐらいである。ちなみに碁石の黒は石から白石はハマグリから作られている。

 その後、息子は暇を見つけては「一局、打って」と我が輩にせがむようになった。最初は、大人の「要領の良さ」もあり、息子に負けることはなかった。祖父がやさしく教えていたのとは反対に、我が輩は息子に加減することなく勝負をした。息子はさぞや悔しかったろう。

 しかし、囲碁や将棋は感性が勝負を左右する部分が多く、子供でも大人と同等に勝負ができる。大人は経験で補うのだが、我が輩は息子と一緒に始めたためにそれも無く、あっという間に息子に追いこされてしまった。
 「ヒカルの碁」という、プロ棋士をめざす少年を描いた漫画がある。少し前に子供達の間に囲碁ブームを巻き起こした作品であるが、子供が何かに集中すると、飛躍的に成長するのを漫画さながらに見る思いだった。

 囲碁は、黒と白の石を交互に打ち合い、より多くの陣地をとった方が勝ちとなる。よく石を取りあうゲームと思われがちだが、そうではない。自分の有利なように石を配置し、地と呼ばれる陣地を広げていく。その際に、石の取り合いが生じるのである。

 自分の地をより広げるために、欲張って無茶な所に石を打つと、繋がりを切られて相手に石を取られる。かと言って、取られるのを恐がって、小さく地をつくると大勢で遅れをとり、最終的には負けてしまう。攻めと守りのバランスを考えながら石を打つことが大事なのである。一見地味に見えるためとっつきにくく感じるが始めてみると面白い。また、よく知られる十九路盤のサイズでは、一局打つのに時間がかかるが、他にも初心者用としてもっと小さない十三路盤あるいは九路盤があるので、興味がある方は一度試してもらいたい。

  我が子に負けるのは、チョー悔しいのだが一方では、子供の成長を喜び嬉しく思う気持ちもある。最近では、我が輩ごときにまだ負けることがある息子に、「お父さんに負けてどうする」とむきになって怒ることもあり、複雑な心境である。我が輩は子供の頃、親父から習うことをしなかったために、息子に教えてあげられることもなくなり、歯がゆくもある。

 より強くなってもらいたい息子に、つい期待してしまい、詰碁の本やら対局用の時計を買って与えたり、小中学生が集う囲碁の大会に出しては、その勝敗に一喜一憂している我が輩とかみさんであり、見事な親バカぶりである。


 残念なことは、周囲の子供たちで囲碁や将棋をやっている子供がほとんどいないことである。

 今、子供達の遊びは多種多様であり、その中でもやはりTVゲームとカードゲームが一番人気であるようだ。ゲームについては年間に数えられないほどのソフトが発売され、大人でも面白さにはまってしまうのだから、子供達がひきつけられるのは無理も無い。

 しかし、ゲームの中には、「人を斬る・撃つ」などバーチャル(仮想現実)な体験が問題になっているソフトも少なくなく、近年増える子供の残虐な事件との関連性についてマスコミ等で取り上げられることも度々である。また、高価なソフトでも飽きれば次のものを買うことになり金銭欲しさのトラブルも少なくない。持ち歩きの出来るコンパクトなゲーム機で、子供が家の外でも一日中、黙々とひとりでゲームしている姿を心配に思うのは我が輩だけではないだろう。

 囲碁や将棋は昔からルールがほとんど変わらないため、世代を超えて楽しむことが出来る点はとても良いところだと思う。過去において平安の都でも同じように遊んでいたと想像すれば、時間の繋がりにロマンさえ感じる。息子は実家に帰れば必ず、祖父と囲碁を打って遊ぶ。不謹慎にも、それを良いことに、子供たちを祖父母に預けてふたりで出かけて骨休めをしているのは、我が輩とかみさんである。   

 そんな息子でもゲーム機はやはり欲しがる。子供どうしのつながりも大事なため、仕方なく買ってあげてはいる。事実、息子の周りの友達は、ほとんどと言って良いほどTVゲームを持っているのである。最近、コンパクトなゲーム機も欲しいといって来たので、「じいちゃんに互先(ハンデなしの勝負)をして勝てたら買ってやる。」と、息子にけしかけて、囲碁への興味がよそに反れるのを防いでいるこの頃である。

 さて、我が輩に勝った息子はご機嫌である。最近は十回に一回勝てれば良いほうで、息子も調子に乗り、我が輩に対し、「ここの打ち方を間違えたね」とか「そろそろ二子置き(※ハンデのこと)で打とうか」などと、かなり横柄な口をきくようになった。

 我が輩に似て調子者の性格である。負けたときはとことん落込むところも同じである。この性格は自分もそうだが、直りそうもない。

 親は子供に対して、どんな場面でも負けてはならないと思っている。いつかは子に追い越されることも願っているが、小さなうちから負けることは許されない。子供が親の強さを感じて、「いつかは・・・」と思わせるようにすべきである。

 碁については、残念ながら息子に追いつくということは無理そうである。と言っても、親としてこのまま、おめおめと引き下がるわけにもいかないので、通勤電車の中で詰碁の問題集を解いたり、夜、息子が寝た後にパソコンの囲碁ソフトで対局しては、こっそりと特訓をしている我が輩である。

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 この作品は息子が、まだ小さかった時のお話です。まだガラケーもない時代であり、ゲームについてはテレビに繋げて遊ぶものだけだったと思います。
 久しぶりに読み返してみれば、当時からさらにIT機器は進化をとげ、子供たちの間にも普及しています。「スマホ依存症」という言葉に表されるとおり、子どもや若いひとたちだけでなく、本当に多くの人たちが小さな画面を見ながら生活するような時代となりました。
 そのことを全否定するわけではありませんが、あまりにも偏重が過ぎる感じがして、根拠のない不安感が漂います。
 このようなことは他の分野にも見られ、交通では自家用車中心の生活、日常生活は電気に頼りきったものとなっています。
 私が囲碁に学んだ教訓として、「陣地を拡大するときは、まず足元を固めよ」ということです。無理に勢力を伸ばそうとすると、目と呼ぶ死活の根拠を作れずに、打った自分の石を全部とられかねないからです。
 乗り物の自動運転や再生可能エネルギー、ロボット、AI人工知能など、新しい技術を創造していくことは人類の本能かもしれないので、これも否定しませんが、足元を固めずに高望みばかりすると、後にしっぺがえしを食ってしまうことを心配しています。


 今、行き過ぎた自動車偏重社会のために、足元であるバスや鉄道などの公共交通機関が危機を迎えています。この状況を打開するためには、必ず未来を創造する能力が必要です。noteを利用する方は創作意欲に長けた方が多いと思いますので、どうか一緒に鉄道の地方ローカル線を活性化して、不安がない社会を作ることにお知恵を貸していただければと期待します。


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