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小説「着物でないとっ!」⑮-2

15 和裁士のこころ

その声は自分たちの不安など関与しないような冷淡なものに聞こえた。

「優勝は……、福岡……門司和裁学院……幸、緑さん」

願いが叶ったことを感謝するかのように天井を仰ぐ幸。両手はまだ震えている。それまで彼女の全身に溜まっていた不安が一瞬にして解放される。周囲の声は聞こえない。まるで時間が止まったような感覚にために安堵のためほっとする幸。ゆきとさくらが眼前にせまっている。

「やった、先生……やった! やった!」

 はっとして我に返る幸の前に傍聴席から飛び出して駆け寄ったふたりが幸の細い身体を前と後ろから抱きしめる。ゆきもさくらも目からは大粒の涙が止めどなく流れる。

「ゆきちゃん、さくら……」

「先生、先生…良かった!」

例年の受賞風景では見たことがないほど、三人が抱き合い喜びあう姿であったため、参加者そして応援者の皆が驚き、そして大きな拍手でその受賞を讃えた。

「ナゼダ?」

競技者席の中から突然、大きな声があがった。トニーであった。今まで結果の発表を湧き上がる憤りを抑えながら聞いていたが、一転して今は怒りの形相で幸をにらみつけていた。

「ナゼ、ナゼ、ユキガユウショウナノカ? ワカラナイ!」

故郷のインドを捨てるように外国に出て、ベトナムで働いている時に偶然和裁の仕事に出会った。当時は中国の海外縫製が全盛期であったが、偶然に小規模ながらも手縫いをしていたベトナムの職人に手ほどきを受けた。元々、手先が器用だったこともあり、女性ばかりの職場の中で男として葛藤をしながら飛躍的に腕を磨いた。

縫製工場が中国からベトナムに移る時期にも重なり、海外縫製工場を発展させる一躍を担う立場となった。より高い技術の習得を求めて来日してから、まだ3ヶ月であるが自分の仕立てが本場の日本で大差ないことも確認した。

今回のコンクールで優勝すれば自分の和裁士の格を高めることもできると、京都の展示会で出会った柴田に誘われ参加した。実はトニーは、これまでにも小さな競技会に参加したこともあったが、その全ての結果発表において、審査員からの具体的な評価基準が発表されないことに疑問を持っていた。

審査結果の根拠について明らかにしてもらいたいという訴えを受け、審判員はいったん進行を止めて相談をしていたが、
「解りました。トニーさんがそこまで言われるなら、仕方がない」

会長は、言葉だけでは到底理解してもらえないだろうと覚悟を決めた。
「山川くん、おふたりの提出品を持ってきてください」
 しばらくして、係員がふたつの箱を抱えて来た。
「こちらがトニーさんのもの、そしてこちらが幸さんです」
 会長は、トニーの方を見ながら言った。
「トニーさんは、お二人が仕立てた着物の差が分かりますか?」
 トニーは自分と幸の着物を交互に手に取り、縫い目や形状を比較していったが、大きな違いは見つけられない。いや、逆に運針縫いの目は自分の方が、より正確な仕上がりであるとさえ思えた。会長が、食い入るように目でばかり見ているトニーに理由を話そうと思った時であった。幸が口を挟んだ。
「トニーさん、良かったら丸袖のところを手で触ってみてください」
 その言葉に会長は驚いた。自分が出そうとした答えを幸が見抜いていたからだ。トニーも幸からの突然の言葉を、素直に受け入れて言われた通りに大きな手で挟み感触を探った。
「コレハ?」
 トニーも、すぐに幸の言葉の意味を理解した。
「ヒダガナイ」

トニーは驚きを隠せなかった。

幸が作った袖は、いくら触っても襞の厚みが感じられない。
 いや、襞はある。しかし、折り畳むことで必然的に生じる厚みの差が感じられず、全くゴワゴワとしないのだ。いったい、中の襞をどのように織り込んだのかが全く想像できなかった。

トニーは、ついに我慢が出来ずに幸に尋ねた。
「コノソデハ ドウナッテイルノカ?」
谷も先ほどの疑問を幸に尋ねた。
「何故幸さんはトニーさんとの違いが袖だと気付かれたんですか? あなたは、トニーさんの作品を見てさえもいないのに」
「私はトニーさんの後ろの席だったので、彼が後ろ姿で作業の流れを感じました。男仕立てでは運針縫いの速さと正確さを感じました。でも、袖の仕上げでは、十分な時間をとれていないとも感じました。学校では生徒たちに見えないところで手を抜いてはいけないと教えていますから」
 会長は、トニーの方を向いて言った。
「トニーさん、今回のコンクールにトニーさんが参加されることになって私たちも少し戸惑いました。海外での縫製事情については自分たちも関心を持っています。日本の国内で着物を仕立てるひとはめっきり減って、今では海外での縫製が主流です。機械縫製ばかりのイメージをもっていましたが、トニーさんみたいなすぐれた仕立てをされる方がいらっしゃることも驚きでした。でも、幸さんのものと大きく違う点は、見えないところへの細かな心配りです」

会長は今度は会場全体に向けて言った。

「トニーさんご自身も解っていらっしゃるかと思いますが、今日参加されている若い方たちにも知ってもらいたい」
 会長は幸に向かい、
「幸さん、この袖、申し訳ありませんが一回開かせてもらってよろしいですか?」
「はい、構いませんが……」

会長は幸とトニーの目の前で、幸の着物の袖裏の糸を切り、解いた。そして内側の襞の部分をトニーに見るように差し出した。その襞は寸分の違いがない幅で無数に折りたたまれていて、見た目にも襞どうしの段差が無かった。また、襞を直接触ってみても段差を感じないほど緻密に折られたものであった。そのため、袖の外から触っても襞が全く無いように感じたのだ。

「解りましたか? トニーさん。見えない部分についての幸さんの配慮が」

「ただし、これは日本の和裁士ならば入賞された方すべてに共通しているものです」

「今回、幸さんが優勝された理由についてですが……」

そこまで言って、会長は係員にルーペを持ってくるように指示した。そしてルーペをトニーに渡すと、衿の縫い目を見るように言った。幸の縫い目は、お手本のように一定間隔に縫い目が形成されている。しかし、縫い目については自分のものと大差ないようにも感じ納得は出来ない。

「もう一度、自分のものもご覧になってください。特に運針の糸目付近の生地をよく見られてください」

トニーは自分が提出したものを凝視する。すると縫い目の糸目付近の生地のいくつかにかすかな茶系の色がついているのに気づく。

「コレハナンダ…?」

トニーは自分が縫った生地ではあったが色がついた理由が分からない。

「それは、針から生地に移った錆です。手汗のついた針は仕立て中に錆が出ます。運針の縫い目を分かりやすくするため、競技会では薄い色の生地を使っていますが、そのため針に錆が出た場合は縫い目に錆が残ってしまうのです。それはほんのわずかなので生地が濃い色であれば全く解りませんし、通常であればそんなところまでは配慮しません」

「そして、こちらが幸さんの仕立てた分です」

「よーく、ご覧になってもらいたいのですが、生地全体を見渡しても錆の後は一切残っていません」

「幸さんは、そのため運針縫いの途中で何度も縫い針を交換されていたのです。そのため、幸さんが仕立てたものには一切錆の跡はありませんでした。これが幸さんが優勝された理由です」

会場がざわついた。通常の仕立て業務において、日本の和裁士でも縫い針の錆のことを配慮することまではしない。しかも、時間の限られた競技会において針交換のことを考えた選手は幸を除く他の選手では思いもつくものではなかった。
 会長は、今度は競技者と応援席に向かって言った。

「みなさんにお話しがあります。私たち和裁士は着物への思いをもって仕立てをしています。確かに和裁士を目指す日本人は少なくなり、年々海外縫製、そして機械縫製が主流となりつつあります。今回、外国人のトニーさんが参加されたことも、今の流れの当然の結果であると思います。しかし、私は今まで和裁士の先輩たちが努力研鑽してきた和裁の儀技術だけではなく着物に対する思いを伝承していかなければなりません。どうか、これから和裁士を目指すみなさんには、その心を大切にして頂きたいと思います」
 会場から自ずと拍手が湧き上がった。


つづく






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