見出し画像

現場の自衛官が見た地下鉄サリン事件(加筆Ver.)

目  次

まえがき
1 前 兆
2 出 動
3 突 入
4 経験の普及
おわりに

まえがき

 これは私が陸上自衛隊化学科隊員だった頃の事実に基づく体験談であり、物語ではなく、ひとつの情報資料として読んで欲しい。 
 これが災害等、危機管理の一助となれば幸いです。 

1 前 兆

 皆さんは覚えているだろうか。私と同年代の方々は今でも記憶に残っているだろう。
 私は、この事件を通じて、実戦では訓練以上のことは出来ない。日頃の訓練が如何に大切か、痛感させられりる日となった。

 1995年3月20日、都内地下鉄5箇所で猛毒サリンが撒かれ死者14名、重軽傷者6000名以上の被害を出した、オウム真理教による、一般人を巻き込んだ無差別同時多発テロ事件が起きた。

 それが地下鉄サリン事件だ。

 その前年、1994年6月27日夜、長野県松本市で、死者8名、重軽傷者600名以上を出した松本サリン事件が起きていた。
 当日、私の部隊、第101化学防護隊(大宮駐屯地)は福島県白河布引山演習場での訓練を終え、明日の帰隊準備をしていた。
 その時、事件の一報が流れる。後の松本サリン事件である。
 テレビの報道は現場の混乱状況を伝ている。隊員は手を止め、テレビニュースに注目した。  
 現場の状況、被害者の症状、使用されたであろう毒物の特性から「あれはサリンではないか」と私は思った。その場に居合わせた、他の隊員達もそう感じていた。「なぜこんな所でサリンが」
 後の調査で使用された物質は猛毒のサリンの疑いが強まった事は皆さんも御存知だと思う。

 1995年3月17日(金)19時頃、電話が鳴った。部隊からであった。
 明日3月18日(土)に朝霞駐屯地へ防護マスクを運んで欲しい、との電話であった。休日だが、特に予定も無かったので承諾した。
 朝8時に部隊へ出向くと、そこでは既に20~30人程の隊員が集まっていた。異様な雰囲気だ。嫌な予感がした。
 私達は化学学校庁舎の一室に集められた。化学学校の幹部が話す「ここからは明日(3月19日)まで特別な任務になる、どうしても都合の悪いものは今すぐこの部屋から出るように」と言われ、私は出ようとしたところ、「お前は駄目だ残れ」と引き戻された。
 化学科装備品である検知器材や防護器材を準備、車両に積載し大宮駐屯地を出発、朝霞駐屯地へ向かう。
 3月18日(土)午後、朝霞駐屯地に到着した私達は、駐屯地の体育館で器材教育等の準備に取り掛かる。私はCR警報器(化学剤、放射線検知警報器)の教育担当となった。
 そして3月19日(日)警視庁の機動隊員が朝霞駐屯地の体育館へ招集された。そこで機動隊員に対し、検知、防護器材等の取扱い教育等を実施して、そのまま器材等を貸出し、訓練は終わった。
 ある機動隊員が「俺達戦争に行かされるんじゃないか」と不安そうな顔をし、仲間の機動隊員と話していた。
 私も「いったい何のための教育、訓練だったのか」と思った。 
 そしてその夜、大宮駐屯地へ帰隊することとなる。
 今回の、警視庁機動隊員に対する器材等の教育訓練及び器材の貸出は、後日、3月22日(水)オウム真理教の教団施設への強制捜査のための準備だった。
 後の報道等で明かされるが、当時は極秘に進められていたのだ。
 私達は勿論、機動隊員ですら知らなかった。

2 出 動

 3月20日(月)朝、とんでもないニュースが飛び込んでくる。私達は手を止めニュースに注目する。どこか現実離れしていて、まるで映画のワンシーンでも観ているようだ。
 「いったい何が起きているのか」 
 都内地下鉄数カ所で猛毒サリンによる同時多発テロだ。
 これが世に言う「地下鉄サリン事件」だ。
 私達は直に地図を広げ現場を確認すると同時に、出動準備へと取り掛かる。車両へ検知、防護器材等を積載し出動準備を整える。
 これはもう訓練ではない。もしサリンの除染を実施することになれば、陸上自衛隊始まって以来、本物の神経ガスサリンと戦うこととなる。
 国産の装備品は性能も高く信頼はしているが、普段過酷な訓練で使用している古品では一抹の不安があった。そのため大宮駐屯地を出発するに先立ち、私は普段使用している防護マスクではなく、新品を交付するよう具申した。その意見は通り新品の防護マスクが配られた。
 当初、第101化学防護隊は市ケ谷駐屯地を目指し前進した。
 市ヶ谷駐屯地では、第101化学防護隊の他、化学学校の職員も集まっていた。
 3月20日(月)午後、市ヶ谷駐屯地へ集結した私達は、被害が発生している現場5か所へ、部隊を再編成して個々に現場へ向かった。
 私の班は情報小隊主力であり、当初、築地駅へ向う。
 現場へ向う車両の中で、私の心は不安と緊張が徐々に高まっていくのを感じた。「上手く出来るだろうか」と呟く。

3 突 入

 築地駅へ到着すると現場は騒然としていた。警察官や消防士達が慌ただしく行き交う。規制線が張られ、関係者以外近付けない状態だ。
 築地駅構内の偵察は化学学校のN3佐が既に終えていた。私は他2名の隊員と伴に、地下鉄構内へ突入するための除染準備に入る。
 携帯除染器に除染剤を充填し、防護マスクを被ろうとした時、一人が「怖くて入りたくない」と言った。私も同じ気持ちだった。ひとつ間違えば命に係わることもある。しかし、自衛官である以上逃げるわけにはいかない。何とか彼を説得し3人で築地駅構内へと突入する。
 恐怖で緊張がピークに達する。階段を降りながら頭の中が真っ白になってしまう。
 遠のく意識の中、階段を降りてゆくと改札口が見えてくる。
 ボーとした意識の中で、まるで誰もいない幽霊列車のように地下鉄車両が止まっているのが見える。
 辺りを見回すとサリンが入っていたと見られる袋が投げ出され、血反吐はいた後や眼鏡が落ちていたり、現場がパニック状態だったことをまざまざと見せ付けられた。
 「こっちだー」と言う声に我にかえる。列車のドアから覗き込むと、床にはベッタリと液体が撒かれていた。床の色でそう見えたのか、その液体は薄黄緑色のように見える。戦場濃度で使用されるサリンであれば無色無臭のはずだ。そして除染範囲が示された。
 私以下2名で列車内を、構内へ入るのを恐がっていた彼には列車内へは入れず、ホームに投げ出されたサリンの入っていた袋の除染を命じた。 
 列車内に入り除染作業を始める。床を中心に万遍なく除染剤をまいて行く。普段通りの訓練動作を続けていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
 すると周りがよく見え、あれもしないと、これはまだだと言うように何をすべきか気付いていく。
 これが戦場心理なのであろうか。
 除染剤の散布が終り、2名を一旦地上へ戻らせ、除染剤を洗い流す水をくみに行かせた。除染剤とサリンを反応させた後、除染剤自体も毒性があるため、水で洗い流さなくてはならない。その後、除染効果を確認するため検知を実施し、サリンの反応がなかったので、除染を終了し地上へ戻った。
 外では化学小隊の除染車が待機しており、無事戻った私達を洗い、そして私は防護マスクをとった。
 築地駅の除染が終了し、車へ戻ると休む間もなく後楽園へ向かへとの指令
 後楽園へ到着すると既にそこには他の小隊が着手していたため、霞ヶ関駅へ向かへとの再指令
 私達は、急ぎ霞ヶ関駅へと向かった。
 到着すると私はそこで再編成され霞ヶ関駅構内で2度目の除染作業を行うこととなる。
 既に10時間以上、化学防護衣を着たままだ。まだ3月の夜は冷え込む。ゴム製の化学防護衣の中は汗が冷えて冷たい。トイレにも行っていない。
 そんな中、やっと全ての除染作業を終了し、市ヶ谷駐屯地へ戻ったのは夜中の2時過ぎだったと思う。ホッと胸をなでおろす。
 3月21日(火)第101化学防護隊は一部を警察の強制捜査の協力のため上九一色村地域へ同行させ、主力は市ヶ谷駐屯地から六本木防衛庁へ移動し待機した。都心でのさらなるテロの発生を警戒したのだ。
 そして、3月22日(水)教団施設の強制捜査の行方を見守る。
 その後、オウム真理教、教祖の逮捕で一応の決着を見るが、その後も小さな事件は続く。一月後、横浜異臭事案にも出動することとなり、現場で警察官立会のもと不審物の検知、特定を実施した。

4 経験の普及

 今回のサリン対処で、普段からの訓練の重要性を痛感した私は、このような経験を何処かで活かせないかと思っていた。
 すると、大阪市消防局から特殊災害に関する教育依頼があった。
 その当時の私は、第3師団司令部(兵庫県伊丹市)の化学幹部として勤務していた。
 大阪市消防局の I 警防課長とS消防司令がお見えになり、特殊災害に関する教育及び協同訓練の依頼を受けた。
 その後も、神戸市消防学校の講師依頼、京都府危機管理関係者170人に対する講演等多数の依頼があり、多忙な日々を送ることとなった。
 また私は第3化学防護隊(兵庫県伊丹市)を新編し、本格的に警察、消防、自治体等との協同訓連を実施することとなる。
 その後も、奈良県天理市消防局や京都府とのテロ対処訓練。特に大阪市消防局及び大阪府警との協同訓連では、舞洲アリーナでの訓練や消防学校等での、いくつかの訓練を得て、私が成し遂げたかった訓練の総仕上げへと入る。
 私は地下鉄サリン事件の経験を活かした、最後の訓練をJR新大阪駅で実施した。
 それは日本で初めて本物の新幹線車両を使用した、化学テロ対処訓練であった。
 訓練内容は、京都駅で東京発博多行の新幹線車内に、液体の入ったペットボトルが撒かれ、多くの乗客が苦しんでいると言う想定のもと実施した。  
 実際の乗客に見立てた100名、消防学校の学生等を乗せた状態で行った。
 訓練は先ず、連絡を受けた駅員により、新幹線ホームにいた乗客の避難誘導から始まった。
 そして消防による被害者の救護、搬送及び警察、消防による不審物の検知・同定、最後に自衛隊の除染により安全の確保を図った。
 今回の訓練で、警察、消防、自衛隊との現場での連携を確認し、一定の成果を納め成功裏に終えることができた。
 大阪市消防局を初め、同危機管理室、大阪府警、JR東海及びJR西日本等の、訓練へのご理解とご協力に感謝申し上げたい。
 この新大阪駅での、新幹線車両を使用した化学テロ対処訓練は、あってはならないが、万が一に備えたものであり。この訓練実施は、私の長年の願いでもあった。実に、計画から実施までに約2年の月日を費し実現した訓練で、とても思い入れの強いものであった。
 1ヶ月後、私は、この訓練を最後に関西を離れ、新たに新編された中央即応集団司令部の初代化学幹部として着任することとなる。

おわりに

 この様な悲惨な事件を風化させない、また二度と起こさせない事を願い続けてきました。
 最後に大阪市消防局を初め、訓練に参加された多くの方々のご協力に感謝致します。
 この地下鉄サリン事件で、無念にも犠牲になられた方々、多くの重軽傷者の方々へ、心より哀悼の意を表示、また、お見舞い申し上げ「現場の自衛官が見た地下鉄サリン事件」を終わります。

 ありがとうございました。

著 者  宮澤重夫

 平成30年に陸上自衛隊化学学校化学教導隊副隊長を最後に退官
 現役時代に体験した、地下鉄サリン事件や福島第1原発事故対処等の経験談をシリーズとして執筆中

主な資格
防 災 士
第2種放射線取扱主任者
JKC愛犬検定最上級

#創作大賞2023
#オールカテゴリー部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?