書評:藤田直哉『新海誠論』と古代

 藤田直哉『新海誠論』というそのものズバリの本が出版されていた。昨年出た榎本正樹の書籍が新海誠の映画の細部に分け入り準拠作品との丁寧な比較をおこなって新海誠を論じていたので、期待をして開いてみたが榎本の著書や同時期に出た土居伸彰の新書に比べて議論が雑だなと思ったのでメモ程度に批判的書評を記す。これは藤田に限らず、新海誠を論じる際の民俗学的モチーフや考古学的モチーフに対する安易な引用への危惧からでもある。新海誠はある時から神話や古典、民俗学をモチーフにしており、そうした方面から考察/論評されてきたが、そこで展開される通俗的イメージがそのままあてはめられることで、現在その文化を担う人々へのバイアスやラベリングが起こってしまうこともあるし、前世紀の議論をそのまま現代につなげてしまうことにもなる。藤田の評論を読んでいてそうした傾向が最も顕著であると思い、問題点をまとめようと思ったしだいである。

新海誠と縄文とアニミズム

 本書は作品論というよりも作家論に傾いているように思える。もちろん、監督である新海誠の人生は作品に影響を与えているし、私小説的な作品も作っており、新海が投影されているキャラクターも少なくない。しかし、あまりにも作家としての新海誠を読み込み過ぎているのではないかという気がしないでもない。そこに依拠する時に持ち出されるのが民俗学や考古学の視点である。筆者は民俗学も考古学も人類学も詳しくないが、それを導入する時はもう少し慎重になるべきではないかと思うのである。

それは、佐由理の足元から出て来る塔たちに縄文の刺青のような模様があることと佐由理が元々は巫女として構想されていたことと無関係ではないだろう。青森を含む東北は、イタコなどのシャーマニズムが盛んで、いまなお存在し続けているが、しかし日本全国で考えれば、そのようなアニミズム的な土俗信仰は失われてきている。p61

新海が青森を舞台にしたのは、生まれ故郷である長野県小海町と似ていると感じたからだというが、小海町には、松原諏訪神社がある。近くにある諏訪大社では、七年に一度行われる、巨大な柱を坂から落とす祭りで有名だが、これは太古の昔の信仰の形を残していると言われている。この辺りは縄文系の住人が多かったらしく、様々な遺跡から創造性の高い出土品が多数出てくる。p63

帆高はおそらく、神津島の海上民・縄文的な遺伝子を濃く継承した存在と設定されている。名前は「帆」を「高」く掲げるというものだし、オープニングは船によって故郷を捨てて出港する場面であえう、恐れず、荒波の中に乗り出す精神を持つ人物として設定されている。農耕民である弥生人と比較し、縄文人は冒険心に富み、生命力が強く、おおらかな傾向があると言われるが、帆高に託されているのは、造形的には縄文系には全く見えないのだが、「縄文」的な態度なのではないか。p166

それ(筆者注・「天気の子」)は、長野で生まれ、自然との素朴な交歓――国家神道や天皇に回収されない、土俗的なアニミズムやカミとのつながり――を経験し、それを作品に描いてきた新海が到達した結論の一つである。

 新海誠作品は藤田は「雲のむこう、約束の場所」の蝦夷製作所や佐由理の夢に出てくる模様から新海作品に存在する縄文を読み取っている。たしかに「雲のむこう」に出て来る抵抗勢力として「蝦夷」の名を関した組織を出すことと青森という場所性を繋げることは意味があるだろう。しかし、それを新海の生地である小海町と結びつけて新海の作家性に結びつけるのは余りにも短絡的で素朴で暴力的ではないだろうか。更に縄文系に関する論述も「冒険心に富み、生命力が強く、おおらかな傾向」という現代人から見たステレオタイプ的な縄文人像/地方像であり、縄文を反映しているとは思えない。むしろ、考古遺物からそのような縄文人の性格は分かるのかということも疑問であるし、仮にそうだとしてもそれが現代まで連続性を持っているとは思えない。それを指摘するならば新海の発言や文章などそれなりに説得できる資料が必要だろう。

 藤田の言うように新海誠と縄文のつながりは無視できない。ただし、それを結びつけるのはもっとオカルティックなものではないかと筆者は思っている。藤田は166ページで帆高の縄文性を指摘した後で、芸術家の岡本太郎が修験の山を旅した時に感じたアニミズム的感覚の文章を留保なく引用している。岡本太郎は縄文の美を見出し、縄文ブームを牽引した一人である。岡本の神話論・縄文論・日本論を引用する場合はそのことに触れるべきだろう。同時代は古代史ブームが起こり松本清張や大和岩雄が古代史に関する著作を執筆していたこともあるだろう。なにより1970年代はオカルトブームの真っただ中で1979年には雑誌『ムー』が創刊されている。「君の名は。」で勅使河原が読んでいて、「天気の子」で帆高が記事を書いていたあの雑誌だ。むしろ縄文と1973年生まれの新海誠を結びつけるのはオカルトの中で育まれた超古代史なのではないだろうか。オカルトの補助線を引くことで「星を追う子ども」に出て来るヴィマーナ(オカルト雑誌では超古代兵器とされる)や「君の名は。」以降の物語とも繋げることができるのではないだろうか。

 アニミズムに関しても同様である。藤田はアニミズムに関する先行論として岩田慶治をあげているが、アニミズムに関する議論は岩田以外にも存在するし、近年では人類学の方では議論も進み新たなアニミズムが論じられている(例えばフィリップ・デスコラの著作などがあるし、ウィラースレフのの民族誌で論じられるアニミズムなどもある)、そうした議論を踏まえる必要があるのではないだろうか。新海の作品をアニミズムと結びつけるのは藤田に限った話ではないが、筆者はむしろ人間中心主義的なのではないかと考えている。ここでは詳しく書かないが、「天気の子」では帆高はラストで人新世の本を読んでいるし、最新作「すずめの戸締まり」でダイジンが犠牲となって日本を救っている(この点は茂木謙之介も指摘している)。このような点を考えるとアニミズムという言葉を無批判に使用することで通俗的アニミズムにとらわれてしまっているように思える。原初的アニミズムという語自体が文化進化論的な考え方ではないのだろうか。

 藤田の素朴な縄文人観やアニミズム観は新海誠の属性だけではなく、自身にも向けられる。あとがきで藤田は以下のように記している。

 筆者の父方の祖父母は北海道に移民し、アイヌの聖地で今は「ウポポイ」のある白老の近くで野生の馬を捕まえて移動の手段にしたり、山菜を摘んで売ったりして暮らしていたらしい。想像するに、かなりアニミズム的な感覚で生きていたようである。p187

 ここでいう「アニミズム的」とはどのようなことなのだろうか。北海道の開拓民は北海道民のアイデンティティを規定する一方で先住民であるアイヌの居住地を収奪した侵略者/植民地者と裏表の関係である。そうした歴史的背景を「アニミズム的」というのはかなり危険である。61ページで藤田はアイヌと縄文人を結びつけて論じている。言うまでもなく藤田にとって縄文は「土俗的」で「アニミズム」である。このように関係づけた時、縄文やアイヌへの素朴なまなざしが暴力的なものを孕んでいることに気付かされる。縄文のアニミズムもアイヌと自然の関係性もアニミズムも構築された観念にすぎない。そこを新海に限らず芸術作品に表象される存在は括弧で括って扱うべきなのではないだろうか。


古典とエロスとラブコメ

 二人は抱き合ったあと、どうしたのか?自然な流れとして考えると、二人はセックスすることになるように思われる。
(中略)
 雪野が靴を脱ぐシーンで飛び立つ鳥はセキレイである。『日本書紀』では、セキレイは、長い尻尾を上下させて動くので、セックスの仕方をイザナギとイザナミに教えた鳥だとされている。実際に新宿御苑で見られるとはいえ、わざわざこの鳥を描くことには、意味があると考えるのが自然だ。
(中略)
 『古事記』神話では、セックスこそが、神や国々を生み出す力なのである。アニミズム的な段階の神道では、性的な欲望、出産、稲が米を実らせる力、山からもたらされる動植物、台風、自身、などなど、「自然・生命の勢い」全般を「カミ」として感じていた。
 だから『言の葉の庭』の、セックスを思わせるシーンの意味を軽視するわけにはいかないのである。観念や思考ではなく、身体の動きこそを重視する前作、今作の意味も、そこに関わっている。引用されている『万葉集』の句も、男と女が交わすものであり、ひょっとすると性行為を行った後の、帰りの場面で詠まれたのではないかとも推測される。それをわざわざ男子高校生に伝える雪野の、隠れた危険でエロチックな意図や欲望も、なかなかスリリングである。pp106-107

 これは「言の葉の庭」を論じた章であるがページを開いて突然雪野と孝雄がセックスをしたであろうということが論じられていて思わずぎょっとしてしまった。ぎょっとしてしまったのは個人的な感情であるので差し引くとしてもかなり乱暴な議論であるように思える。もちろん、孝雄が雪野の足のサイズを計るというフェティッシュな場面はセックスの暗喩であることは論じ尽くされているし、新海自身も述べている。しかし、雪野と孝雄が抱き合うシーンから肉体的結びつきへと論じるのは飛躍である気がする。藤田が根拠としているのはセキレイの歴史文化的背景である。セキレイに性的意味があると読み込んだとして、それは結局は足のサイズを計るシーンとどうようにメタファーなのではないだろうか。

 ではなぜ、突然にセックスが出てくるのだろうか。「秒速5センチメートル」で貴樹と明里が小屋の中でセックスをしたと読み込む方がまだ自然だが、「ぬくもり」という曖昧な言葉でしか論じられていない。ここでは藤田が「星を追う子ども」~「君の名は。」までの時期を古典期と区分していることがあると考えられる。序において藤田はこの頃の作品を『古事記』や『万葉集』などの古典の読み替えをおこない、セカイ期における喪失などといった対人感情を歴史や過去や文化を対象におこなわれるようになるとしている。

 だとしたら古典に表象される新海作品の世界とはいかなるものなのだろうか。新海の読書歴は断片的であるし、蔵書目録も存在しないのでそこから読み取れることも限定的になってくるだろう。逆に新海誠を通した藤田の古典観が『新海誠論』からうかがえるのではないかと思う。先述したように、藤田のアニミズムや縄文は通俗的で議論を踏まえられずに使用している点がある。「言の葉の庭」の階段のシーンで風雨が強くなる場面を谷川健一を引用して風が祖霊=神の示現であり、自然の神的な力を読み取っている。ここも谷川の文章の文脈が切り取られており、風が祖霊であるということが民俗学の常識であり、谷川に新海が影響を受けているかのようである。

 それ以上に、藤田は古典に古代のおおらかな性を読み取っているのではないかとさえ考えられる。「セックスに拘る」のは新海ではなく藤田なのだ。セキレイの指摘の後に藤田はセックスこそが神々を生み出す力だとしているが、『古事記』を読めば当然にそれ以外の方法で神は生まれている。「アニミズム的な段階の神道」というのが意味をとれないが、米を実らせる力を『古事記』に引き付けるなら、オオゲツヒメの物語が思い浮かぶが、もちろんセックスによって米ができたわけではない。もちろん、民間次元で小正月に疑似的性行為をおこなう儀礼は存在するが、それを指摘しているわけではないだろう。藤田は個人的にはと留保した上で新海に漢心以前の大和心を取り戻そうとした本居宣長のような胎内回帰的でエロティックな欲望の存在を感じてしまうという。それは過去の理想化なのではないか。

 性への過剰ともいえるこだわりは「君の名は。」にも続く。

 異性の身体に入っているときに、その身体が欲望に疼いたりすることもあるだろう。一七歳頃の男女で、異性に興味がある者ならば、互いの身体に欲情するのを止めることも難しいだろう。瀧は、三葉の胸のみならず、女性器に興味を持ち、鏡などの前で足を開いて中を覗き、指を入れて触っているうちに、自瀆行為に及ぶこともなかっただろうか。そのような場面を描いた多くの二次創作の存在が、少なからぬ観客がそれを想像したことを示している。pp112-113

 ここで藤田は瀧が三葉の身体に入っている時の自慰の可能性に言及しており、二次創作の存在からそれを共有している。確かに、瀧が三葉の胸を揉むシーンは「君の名は。」が地上波で初放送された時に物議を醸したが、あのシーンはラブコメのテンプレート的なシーンと言えるものではないだろうか。「君の名は。」から(正確にはZ会のCMだが)新海作品に田中将賀がキャラクターデザインとして加わったことにより、それまで風景と音楽とモノローグでアニメを語らせてきた新海にキャラクターが加わった(この点は土居伸彰も指摘している)。映画の中のキャラクターは赤面したり疑問の表情になったりそれ以前よりもより表情豊かに、言い換えれば記号的になっていった。その中で三葉が口噛み酒を売るシーンを想像する場面や胸を揉むシーンも記号的なものと位置づけられるだろう。同時期に漫画連載、アニメ化・ドラマ化された古河美希の「山田くんと7人の魔女」でもヒロインと入れ替わった主人公が胸を揉んだり服を脱いで裸になるシーンがある。「君の名は。」で同様のシーンを見た時に観客も経験の中にある同様のシーンを思い浮かべたはずである。そこには、口噛み酒を飲む場面のような生々しさはなく、ラブコメのお約束としての位置づけができるのではないだろうか。二次創作の中に描かれると藤田は指摘するが、逆に自慰という生々しい行為は二次創作の中にしか現れないとも言える。

 藤田は「君の名は。」のキーワードともなっているムスビ/ムスヒを何かを繋ぐ力であるとし、キャラクターを推する気持ちや地方と都市、SNSなども全てムスビと結びつけている。更に宮水神社の祭礼から昔の祭礼は男女の出会いの場の側面もあり、盆踊りは「無礼講」の乱交状態であったと断定して書いてあるが、ここも歴史的変遷を踏まえて論じる必要があるだろう。そしてアメノウズメの逸話を紹介した上で神と性と芸能の渾然一体となった世界を藤田は想定する。これこそが藤田の古代観であると言えよう。このことが古典をモチーフに取り込んだ新海作品を論じる上で重要なフィルターとなっているのではないだろうか。

 更に「君の名は。」がメディアミックスで展開されたことを伝統文化の習合と同一視している。ここでいう習合を藤田は仏教と神道、縄文と弥生を例にしている。アカルチュレーションと言い換えてもいいかもしれない。ただしメディアミックスに関しては新海誠という作家ひとりに還元するのみではなく、KADOKAWAの商業的な戦略なども触れなければいけないのではないだろうか。そして瀧と三葉が再会するシーンを、再び性的なレトリックを過剰にちりばめて以下のように論じている。

 二つの世界が重なる、ということを、フォトショップで画像と画像を重ねるような、クリーンでスマートなものと想像してはいけないのだろう。既に繰り返してきた通り、本作は性的なイメージが散りばめられ、性交や出産のニュアンスでそれが表現されている。二人が会うために山頂を駆け上がる時には、息をあがらせながら「三葉、三葉」「瀧くん、瀧くん」と叫ぶ。これは、性行為における絶頂を目指しているときを強く喚起させる。
 互いに手を取り、抱き合い、身体をまさぐり、唇を重ね、舌に舌を絡ませ、胸などに手を這わせ、窪んだ所に尖ったところを入れ、様々な体液を混ぜ合わせ、相手の身体に自分の魂が出入りし、二人の区別も、そしてこの宇宙全体と自己の区別もなくなっていく。興奮と快楽と陶酔の中で、全ての概念と区別が消失し、溶け合い、絶対的な肯定と全宇宙のつながりを感じるような忘我の境地に辿り着く。それは、これまでの新海作品が描いてきた「カミ」の瞬間に誓い。
 それは、一点だけに集中していた主体が、周囲の全体性とつながりを意識し、絶対的な幸福を感じる瞬間でもある。両社の性的な結合の果てに、絶頂と忘我の中で射精が起こり、それが受精すれば細胞分裂が起こり、最初に存在した二人とは別種の、両者の性質を併せ持った、どちらでもない子どもが生まれる。新海がここで生殖の隠喩で寿ごうとしているのは、様々な、対立している二者同士が交わって生まれる、これまでこの世に存在していなかった、新しいハイブリッドな存在の次元である。pp129 - 130

 果たしてこのシーンは性的絶頂を「強く喚起」させるシーンなのではないだろうか。むしろ「神と性と芸能の渾然一体」に引きずられた藤田の恣意的な読みなのではないだろうか。それは「天気の子」でも同様で、水商売を売春のメタファーというのは分からなくもないが(それを言うと「すずめの戸締まり」の「千と千尋の神隠し」を踏まえた愛媛の民宿や神戸のスナックも売春のメタファーなのだろうかとも思うが藤田は性よりも傷が強調されているという)、須賀の事務所名「K&Aプランニング」がAV制作会社の「V&Rプランニング」を強く思わせるというのはどうなのだろうか。筆者の勉強不足でV&Rプランニングという会社を知らなかったが、Twitterで検索をしてみても「K&Aプランニング」と「V&Rプランニング」を結びつけているツイートは2つしかなかった。これは新海作品と性の結びつきというよりも藤田の古代観と性の結びつきととらえた方がよいのではないだろうか。そのため古典をモチーフにした新海作品に過剰に性を読み取ってそれを理想化された古代と接合されて論じられていると言ってよいだろう。

まとめ

 本書評では藤田直哉の『新海誠論』からアニミズムや古代についての論を中心に述べてきた。貧困や環境問題、「すずめの戸締まり」についても指摘したいが時間がかかるので、それは後日補論的に付け加えるかもしれない。現在でも通俗的な民俗学や考古学イメージが漫画やドラマなどに取り込まれているが、それらを論じる際に専門の知見をつまみ食いするように引用するのは危険であるし、作品内で表象されるものは、それ以上の資料がない場合は括弧で括っていかなければならないし批判的に読み込まなければならない。新海誠の場合、批判も織り込み済みで作品を作っているように思えるが、そうした意識を持たなければ結局は批判も作品の持つナショナルな世界観に飲み込まれてしまうのではないか、それこそ藤田が危惧する日本浪漫派と新海誠の共通性のように。


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