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【エッセイ】こだわりをもつということ

学生時代に駅のコーヒーショップでアルバイトをしていた際に、注文で苦労することが度々あった。

その店は冬はホット、夏はアイスのコーヒーを2種類提供していたため、どちらかを選んでもらう必要があったのだ。

駅という場所柄、初見のお客さんが多く、コーヒーの銘柄を選ぶという行為に困惑していたものだった。

一方、常連のビジネスマンともなると、「今日は〇〇のコーヒーがあるんだね」と銘柄を覚えていたり、「酸味の強い方がいい」などとご希望を伝えてもらったりした。


コーヒーショップに日常的に通ううちに、自身の好みがわかり、選ぶ商品にこだわりをもつのだろう。そのようなお客さんは店員としても、こちらのこだわりに気付いてもらえたりと接客もスムーズで心地よい。


昨今は、こだわりがあるということに重きをおく風潮がある。コーヒーに関してだけでなく、仕事道具や余暇の過ごし方などといったことへのこだわりから、その人の思いをなんとなく感じ取ることができる。

こだわりは趣味や仕事など、日常生活のあらゆる場面に溢れている。そして、それは時として心遣いや努力といった言葉に名を変えて心地よい生活への重要な要素となっている。こだわりを持つということは、「何となく格好いい」という、漠然とした理由ではなく、実際の生活に関わる大切なものだ。

にも関わらず、私は前述したこだわりを持たないお客さんが来店することを嬉しく思っていた。


こだわりとは同じものを持つ人々ならば、お互いの心遣いへと名前を変えたそれに気がつくことができる。また、目標達成などへのこだわりであれば、自身のスキルがアップしたり、良い成績を残すことにもつながる。
やはりこだわりを持つということは何かをより良くする可能性を秘めた素晴らしいことだ。


矛盾するようであるが、私はこだわりを持たないお客さんに、なにも新たなこだわりを持ってもらおうと思っていたわけではない。こだわりがないということもまた素晴らしいと感じていたのだ。

こだわりのないお客さんにとって、コーヒーの種類や淹れたてであるかなど関係ないのである。ただ、コーヒーを飲んで一息つくこと、更には外出の際の場所代程度の扱いのこともままある。店員がコーヒーが酸化しないようにと慎重に注ごうが、勢いよくドボドボと注ごうがどちらでも構わない。もしかすると、勢いよく注いだ方が待ち時間が短くて良いとすら考えるかもしれない。

彼らにとって、どちらも「コーヒー」なのだ。飲むぶんには、コンビニの100円コーヒー(最近驚く程美味しくなった)も、缶コーヒーもコーヒーショップの300円のコーヒーも変わりはないのである。

コーヒーにこだわりを持ってしまった私からすると、それぞれに香りやコク、酸味等々違いがあるのだが、こだわりを持たない人はそれらを一様に「コーヒー」として楽しんでいる。


こだわりは持たない方が物事に寛容になり、そのものを楽しめるように思うのだ。コーヒーの淹れ方を拘らない人はどんな淹れ方でも気にならないし、

接客にこだわりのない人は店員がお釣りのお札の向きを全て揃えなくても気に止めない。

相手の小さなこだわりに気がつくことが出来なくても、相手が気の回らなかったことに寛容でいられる。そんなふうに思うのだ。


レジでの注文で「ブラック、1つ」と伝え、種類を「なんでもいいよ」と答える列車の時間を待つおじいちゃん達。個人的にはぜひその姿勢を貫いて頂きたい。そうであれば、コーヒー豆の種類が代わってしまっても、あるいは訪れるお店が変わっても「コーヒー」を楽しんでもらえる。その姿勢をとても好ましく思う。


「好きなコーヒーの精製方法はスマトラ式、産地はインドネシアの可能であればスラウェシ島、焙煎はフレンチローストで、フレンチプレスかエスプレッソ抽出で淹れるコーヒーが最高だ」などと嘯く私に、受験生時代の私が眠気覚ましに買った缶コーヒーを片手に「コーヒー」が好きだと言ってくる。

こだわりを持つということも、人生の楽しみ方であるのと同様に、こだわりを持たないことも楽しみ方の1つであるのだ。


願わくは、どなたかに差し出すものには最大限のこだわりを、自分が差し出されたものにはこだわりを持たず、かといって、相手のこだわりには気がつけるそんな人物になりたいものだ。そう思いながら、現実は全て逆をいく。

ままならない自分を無理にただすことにこだわらず、ありのままを受け入れる。これも人生の楽しみ方の1つなのかもしれない。

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