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親との距離感 いろいろ

前半は親との距離を介護・老い・発達障害を絡めながら書いてから
後半でエイブラハムの教え・引き寄せの法則の視点で書くよ。

親の介護&距離感

まずはこちらの引用から

「親の介護」と聞いただけで、目をそらしたくなる。あるいは、せっかく親のために介護をしているのに、感謝されず、自分もキツい言葉を投げてしまう。
それは、あなたが「介護=親孝行=親のそばにいる」ことだ、と思っているからかもしれません。介護を介して自分が愛する親を憎んでしまうことは、残念ながらよくある話です。そんなお互いに辛い状況に陥る前に、あえて「親不孝介護のススメ」をさせてください。介護の常識は、日常の、そして仕事の常識とは大きく違うのです。

「親と距離を取る」、第三者から見たら『親不孝』に見えるやり方こそ、実は正しい親の介護です。関係ない人が何を言おうが放っておきましょう。そもそも、子どものあなたが朗らかに、家族と暮らし、仕事に励んでいる姿こそが一番の「親孝行」ではないでしょうか。

 ブリヂストン、電通などの大手企業の社員の介護コンサルティングを行っているNPO法人となりのかいご代表、川内潤さんがその体験から語る「親不孝介護」。人事・労務関係の方にとっては、介護離職防止に直結するノウハウが山盛りです。公私にわたってぜひ、お役立てください。2022年前半までの内容を収録している単行本はこちら→『親不孝介護 距離を取るからうまくいく
親不孝で行こう 日経ビジネス

「親と距離を取る」、第三者から見たら『親不孝』に見えるやり方こそ、実は正しい親の介護

わぉ~ こうはっきりと言ってくれる人がうれしいな

これは本当に風見婆も同感だよ。

風見婆の母親はちょっと変わっている・個性的(神経発達症・ASD)だから、さらに一捻り加わるけれど

親との距離をとった方がうまくいく

これは一般的にそうだと思うな。

この距離感が人によって違いがあるかなとは思うけれど。

関係ない人が何を言おうが放っておきましょう。そもそも、子どものあなたが朗らかに、家族と暮らし、仕事に励んでいる姿こそが一番の「親孝行」ではないでしょうか。

【関係ない人が何を言おうが放っておく】

この辺が日本人にはなかなか難しいところだと思うよ。

引用元の一連の記事のどこに書いてあったか探せないのだけれど、

老人施設の長の方がこんな感じのことを言っていたらしい。

「介護状態が軽い時期に入所してきた方は、ご家族が頻繁に面会にいらっしゃる。ギリギリ限界まで介護を続けたご家族は面会に来ない。」

そうなのか~と思う。

風見婆も思いあたることある。
風見婆の母は身体的介護は必要ではなかったけれど、精神的にはきつかったから、限界に近くなっていたかもと思う。

終わりが見えなかったからね。

この辺の経緯はこちらの記事に書いたよ。

それから介護職の人が最初のうちに教えられることは、「介護職には自分の親は介護できない」ということ。

引用しておくね

川内 そもそも、介護職になって最初のうちに教えられるのが「介護職には、自分の親の介護はできない」ということなんですよ。

―― そうなんですか?

川内 「自分の親こそ、自分が培ってきた介護のスキルでケアをしたいと思う気持ちを、どこかに持っているかもしれない。だけど、それは絶対やってはならない」と。

―― なぜなのでしょう。

川内 なぜなら、絶対に「いいケア」ができないから。そして、できてない自分を自分で責めるから、です。なぜできないかといえば、これまた、プロであっても必ず「母ちゃん、しっかりしてくれよ」という、皆さんと同じ気持ちが出るから。
―― 「僕の安全基地が壊れていく」という、恐怖や怒りが、分かっていても抑えられない。

川内 そう。そしてそれが、「僕はプロとして何をやっているんだろう」という敗北感となって、さらに自分を苛むわけです。「一番やっちゃダメなことを分かっていて、やってしまったね、プロなのに」ということになる。それぐらい、自分の親の介護は難しいことなんですね。
婦人公論 JP


風見婆の母の場合

元々の風変わりさ(神経発達症・ASD)に加えて、知的な衰えも90歳を超えてから目立ってきた。

家族代行業の方と先日お話ししたところによると

・麦茶の2リットル入りペットボトル6本入りを生協で2週続けて注文し、ペットボトルを冷凍庫に入れた。
(重くて持てない、飲みきれない)

・教会に行くために路線バスが来ているのに乗らない。(気づかない)

・バスに乗るためのパスが取り出せなくて乗れない。

・パスケースを用意してカバンに付けてあげたら、外されていた。

・教会に行くのに携帯を持っていこうと働きかけているが、「重いからもっていかない」といって譲らない。
母はいつも携帯の電源を切っている。自分の用事がある時だけ電源を入れる・これは以前から

・教会に行くといつも礼拝堂の一番前の席に座る。
 「人が少ないわね~」と母がいう
 牧師さんに「後ろを見てください、大勢いらっしゃいますよ」
と言われた。(笑)
(皆さん、夏の暑い盛りは外出を控えていたもよう)

・冷凍食品が冷蔵庫に移されている。
 冷凍のパスタをレンジで温めて昼食に出してあげたら、
 「あったかくておいしいわね~」といった。
 (電子レンジ使えておらず、自然解凍して食べている)

・シーツを洗濯(乾燥含め)の申し出を断る

・介護保険の掃除サービスを嫌がる
 (自分の思った時間に掃除できないから)

・時計の電池交換 を頼まれた時に近所に時計屋があると言い張るは実際にはない。

・訪問医の診療を受けたことを忘れてしまう

風見婆はこの報告を時には笑いながら、こだわりですね 記憶が欠落してきていますね  など冷静に聞くことができた。

もし自分がこのすべてに対応していたら、そんなことは到底できない。

眉間にしわ寄せてこめかみをピリピリさせながら、毎日ネガティブな感情になっていただろうと思う。

母も母で娘には遠慮がないから、言いたい放題、わがまま放題、自己中発言のオンパレードだったと思う。

母は現在、高齢者住宅のスタッフの方々と家族代行業の複数のスタッフの方々にお世話になっている。

上に書いたようなちょっと〜ちょっと、と言いたくような事もあるけれど、

近くの郵便局やスーパー、母の足で徒歩10分くらいのところに自分で行って用事をしてくる。

朝食や昼食は自分で用意して食べている。

93歳としてはかなりいけてるのでは😄と思う。

このような日々を送れる母は、いま一番幸せなのではないかとおもう。
全ての社会的役割から解放されて自分のペースで生活している。

母の生活をサポートして下さっている方々にも感謝の思いでいっぱいだ。

私は経済的な管理と各サービスの契約などを担当しているけれど、他のすべてを家族だけ(一人)で、それも自分の仕事や家事をやりながらやるなんて到底無理だと思う。

家の維持・日々の食事・洗濯といった家事業務・経済的マネージメント・介護保険や医療との連絡・報告・申請業務 

それそれはたくさんある。
家事には見えない業務がたくさんあるし、ブラス介護ときたらそれ大変な量の業務になる。
さらに外向きの仕事もやりながらとなると気の抜けるところなんてどこにもない。

だけどさ、日本の特徴はなぜか精神論が独り歩きするところがあるのよね。

遡りすぎかもしれないけれど、大日本帝国・神国日本は負けない・一億層玉砕・神風

どこか同じような考え方を引きずっているんだと思うよ。

古すぎるね、なんせ親が戦争世代なもので(^-^;

人前で綺麗な理想を語り、煽る人は実際に何ももやらなかったり、やっていなかったりすることもある。

もちろん、そうじゃない人もいるけれど。

人によって向き不向きはあるし、家族・親子がそれまでにどんな道のりを歩んできたかによっても違う。

親の思い、子の思い、家族の思いも一人一人違って当たり前なのだと思う。

人はみなこの世を去る時がくるけれど、「死」に対する受け入れがあまりできていないというか忌む雰囲気すらあるよね。

これは多くの人にとって当然であることかもしれないけど。

でも生まれて死ぬのは当たり前に誰にでもいつかは訪れることだよね。


老い&家族  Abrahamの教え


認知症は死への怖れを弱める

誰しもこの世を去る時がいつかははくるけれど、その死に対して怖れを抱く人はやっぱり多い。

死後どうなるのかが今の私たちの五感でははっきりわからないからね。

その辺、過去の宗教や思想がありとあらゆる考えを創り出してきたけれど。

エイブラハムははっきりと教えている。

私たちは永遠の存在だと。

ポジティブで純粋なエネルギーの永遠の存在 ソース であると。

この肉体を持つ世界にいる私たちは、そのエネルギー・ソースのほんの一部を肉体の中に存在させ、物理的な世界を体験している。

だから死は、元のソースに還る それだけのことなんだね。

そして、また新たに次はどのような人生を過ごそうか、どのような体験をしようかとワクワクしながらまたこの世界にやってくるんだ。

それを繰り返している。

この世界にやってきた私たちが元・ソースとしての自分を思い出せないでいると、死に恐怖を感じてしまう。

その恐怖を和らげるために「認知症」になる とAbrahamは言う。


風見婆はね、次へのステップへの踏み台みたいなものかな~と思う。

子育てしていた頃、キッチンや洗面所、トイレで踏み台使わせていたな~

自分でできるもん!!てやつだね(*^_^*)

風見婆の母もね、父が亡くなった86歳の時にかなり死に対する恐怖を感じていたみたい。

自分の感情を表現できないから、言葉で何かを伝えてくれたわけではないけどね。

病院に行く と言ってきかない時があったり・・・

身体的には大したことない様子で、しかもお盆時期にね。

90歳を超えたころから、今までできていたことができなくなって、わかっていたことがわからなくなっている。

本人の準備ができた時に非物質の世界にトランジットするのだろうね。

トランジットはAbrahamの表現だよ。

物質的な体験の世界から非物質の世界に乗り換える

ってことだね。

これも良かったら読んでね。


家族をシリアスに捉えすぎなくていい

私たちは物質世界と非物質の世界をこれまでに数えきれないくらい往復している とエイブラハムは教えてくれる。

だから、今回家族だからといって、何千回か何万回かわからない体験の中で、ほんの一瞬の体験に過ぎないのだね。

もちろん、自分がこの体験をしようと、したいと決めてきたことで巡り合った出会いだと思うけれどね。

家族が幸せでいることは望ましいことだけれど、まず自分が幸せ=ソースと一致していなければ何もできないんだ。

家族のことで思い悩んでいる時=つまりネガティブに感じているということだね

家族のポジティブなところにフォーカスしよう。

できない時は、家族以外のことで幸せを感じる時間、ほっと時間をたくさんとる。

どんな時もまず自分がソース・インナーに―イングと一致すること、

つまりいい気分でいる事、それが最初なんだ。

そしてね、人はみな自分の現実しか創造することはできないんだ。

どんなに傍から見て幸せそうに見えても、その人自身が幸せだと感じていなければその人は幸せではない。

傍からみて不幸に見える人かもしれないけれど、ハッピーだったりする。

自分の現実は自分自身が創造している。

他人の現実は創造する事はできないんだ。


風見婆の母はね。

いつも人にやってもらう事、お世話してもらう事、誉めてもらうことを望む人なんだ。
今ある幸せになかなか気づかない。
周囲に大切にされ愛されていることになかなか気付けない。

自分の要求が通る事、自分の思いどおりに人がしてくれること、
確実に自分の好みのプレゼントでなければ嫌なんだ。
その自分のこだわりを説明することもできないから、周囲に全ての気配を察して気遣ってほしいというような子どものような要求を持っているひとなんだ。

でもね、少し気づくこともできたみたい。

自分の思い通りにならない時、ものすごい勢いで怒りの言葉や暴言を吐く事があるのだけれど、それを自分で分かっているらしい。

いつもお世話になっている家族代行業の担当の方に話したそうだ。

きっとね、自分の子どもにはプライドがあるからそんなことは言わないとおもう。

勝ち負け・上か下かにこだわりが強い人でもあったからね。


さて、一周、回って戻って来たよ。

親との距離 近ければ良いというものではないね。

それぞれのやり方、付き合い方は違うと思うけれど、
まず自分がソースと一致する=アラインをこころがけ、良い気分でいる時間を増やしていくと、道しるべが見つかる。

ソースとつながって直観(インスピレーション)を受け取るには瞑想がおすすめだよ。


読んでくれてありがとね。























自分の実体験をもとに書いています。 悩むことも迷うことも多かった、楽しんできたことも多いにあった 山あり、谷あり、がけっぷちあり、お花畑あり、 人生半分以上過ぎたけど、好奇心はそのままに 何でも楽しむ気ありありです。よろしく!!