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ASD(自閉症スペクトラム)の老後と介護&家族代行という選択

今回は、私が老いた母(発達障害・ASD)と再び11年間ともに暮らした体験で、悩みながら得た気づき、現状を改善するための行動、自分の気持ちの変化とその時々の思いなども含めて書いてみたいと思います。

母は93歳 私は還暦過ぎですが、11年間の紆余曲折を経て、母の直接的な世話は家族代行業の方々に今年からお任せしています。
家族代行について知りたい方は、目次から4家族代行という選択をクリックしてください。

母親がASD(ADHD)の場合の情報はまだあまりなく、老後となるとさらにないと思います。

どなたかの参考になりましたら幸いです。

*この記事は最後まで無料です。

年齢を重ねる&ASD

年齢を重ねると誰しも今までできていたことができなくなったり、今までは目立たなかった部分が目立ったりします。

身体的にはもちろん、精神面・心理面も変化し、認知的機能も衰えがみられたりもします。

認知症は大変よく知られるようになりましたが、
本人が発達障害(ASD/ADHD)の特性を持っていると、認知症とは少々違う特徴が現れてきます。

私の母は93歳のASD (診断は受けていません。)です。

まだ大人の発達障害という概念もなかった30年くらい前、私は母をとても狭い価値観の持ち主と感じていました。思春期~実家を出るまでは、いちいち私の行動にダメ出しや指示してコントロールしようとする母親と頻繁に衝突していました。

現在は、この時の母の行動はこだわりや母が思う正しさの押し付け、世間に対する恐れからきている事だったと理解しています。

母と再び暮らし始めたのは10年前、当初、母の言動を全く理解できず、苦しい思いをしました。
(母から離れて25年の間に私はこの世界でメジャーである定型発達の仕様に身に着けたようです。)

紆余曲折しながら、3~4年かかって母はASD(ADHD)であると気づきました。

ASDの人は若く見えるという話を聞きます。

 母も90歳を過ぎていますがが、同年代の人に比較すれば若く見えるかもしれません。

姿勢はしっかりしているとは言えませんが、
杖を突いた歩行や身支度・風呂といった身の回りのことは自分でできます。

散歩ほか、いわゆる運動も何もしてこなかった人ですが、
身体的機能の衰えはかなりゆっくりかもしれないと思います。

極度に限定された興味の範囲、自分中心の独特な世界の捉え方
コミュニケーションのすれ違い(空気をよむ、人の気持ちを察する)

この特性はあまり変化がないように思います。

母は外(教会活動)の顔は積極奇異と受動の混合、家の中では受動・尊大の混合のように思いますが、母なりに外の社会に適応してきた結果なのだとも思います。

90歳を超えた最近、食事や身の回りのことで、できないことが目立ってきました。

電子レンジを適切に使えない、生協の注文の量が不適切で大量になる。
保険証、鍵など、物のありかを忘れてしまう

現在、私は直接、母の生活援助や医者への付き添いに直接関わっていません。

冒頭に書いたように家族代行の方にお願いしています。

私がしているのは、お金の管理と施設や医療関係の契約に関わる事だけです。

母と暮らしながら、その都度どのようにするか選択を繰り返した結果、今はこうなりました。

それでは順を追って書いていきたいと思います。


1 物理的距離と心理的距離

辛い苦しい時期の気づき


まず、80歳の母と同居して最初に困ったのが、上手くコミュニケーションがとれず、すれ違うことです。
いわゆる定型とASDの思考回路は違うことで起きるようですが、当時はわからず、かなりのストレスになりました。

いわゆる 報告・連絡・相談がないこと、ゴミ出し、掃除、食事についてのこまごまとしたこと、外出時間など、いちいち行き違いやすれ違いがあるのはかなりのストレスでした。

家事は頼まないと何もやらなかったのですが、やってもらったら雑すぎて、それもストレスになりました。


ASDの特徴を持つ人が毒親になってしまう理由に強いこだわりがありますが、過去母のこだわりの方法で家事手伝いも事細かに命令された記憶もよみがえり、辛かったです。
他にも母のひとつひとつの言動で、たくさんの過去の記憶がよみがえりました。

ごくおおまかににいうと、
・母のこだわりをいちいち強制され、自分の意志が尊重されたり気持ちが肯定されることがなかった、
・母の気分が悪い時は攻撃されて私の欠点(うまくできないこともあまり覚えのないようなことも)をこれでもかと言われつづけ、全否定された

もうこうなってくると、母の存在がストレスということになってしまい、たまらなかったです。

辛い苦しい時期でしたが、この時期を通して得たものもあります。

私が悪いわけではなかった

急に不安な気分がおそってくることがあるのは、母(両親)との関係性からくるものだった (愛着が安定したものではなかった

という気づき、自分の生きづらさの根本要因はここにあったのだと理解できたことでした。

このように得るものもありましたが、ASDの特徴があると知っていたなら、距離感のある暮らし方を最初から選べたかなとも思います。

諦めと距離をとる

子どもはこの世に自分を送り出してくれた親をとても愛しています。
だから、いつかわかってくれる・・自分を理解してくれる という期待を抱きがちです。

この期待を私は同居してから比較的早い時期に諦めました。
それは母の特徴が昔とほとんど変わっていないことに気づいたからです。
(ASDとまだ理解していなかったですが)

同じ家に住みながら、距離をとるのはなかなか大変なことですが、
私は自分の趣味(カメラ・ガーデニング)に集中する時間を作り、散歩や長めの旅行にも出かけました。

カサンドラ症候群のようになりながらも、なんとかやっていられたのは、高校生の娘が理解してくれたからだと思います。

外の社交的な顔とは全く違い、自分のことしか興味がなく、家族のことは雑用係としか思っていないような態度の家の顔、その二面性を娘も知ってくれました。(娘に依存しないように気をつけてはいました。)

*この外と内の二面性には注意が必要だと思います。
(父が亡くなった時点で、母にとって私も娘も外の人でした。
ぞんざいな態度や暴言などはありませんでした。
だから同居を決めました。
同居を始めると認識が変わるのか、そっけない自己中心的態度&暴言が始まりました。
ASDの夫が結婚したとたんに態度が変わるのと似ています。)

その後も幸い、部屋を増築するお金も用意することができたので、母と離れていられる自分の部屋を作りました。

心理的距離と物理的距離をとる方向へと行動したことは、良かったと思います。
ただ、この時期に母の不可解な言動の理由が知りたくて、心理学などを根掘り葉掘りしすぎちゃったかな~と思います。

これはその頃の私への助言としても、もっと自分自身が楽しいと思える時間をとった方がよかったと思います。


理解者をみつける


私は子どもがいてくれたのですが、誰か理解してくれる人がいるといいと思います。
ー夫がASDで妻がカサンドラ症候群ーは知られるようになってきましたが、
親がASDの子どものケースはまだ詳しくわかっていません。

私自身がそうだったのですが、親がASD(しかも母親の場合)、ベースが定型発達でもASDのように思考も行動も母親を真似てしまうことがあります。

小さい頃から自分の感情を共感されたり、肯定されたことがないので、自分自身、自分の感情というものがわからなくなります。
そうしながら身近な見本である母親の言動を真似て取り込みます。

私は20歳をすぎても自分が何が好きで何が嫌いか、自分の本当にしたい事は何か、本当に嫌いな事は何かわかりませんでした。
自分自身がよくわからなかったのです。

理解者がなかなか見つからない場合は、信頼でき参考になりそうななサイトや動画を視聴するなどして、自分の考え方や感じ方を肯定できるような情報を探すとよいと思います。

発達障害に理解のある専門家を探すのも良いと思います。

経験から言えることですが、自分の状況をそのままありのままに理解してくれる人は専門家も含めてほぼいない と思っておいた方が良いと思います。
親に無条件に愛された経験がないと、すべてを理解してくれる人に出会いたいと思ってしまいがちですが、すべてを理解してくれる人(理解したふりをする人)は逆に危険なこともあります。

例えばこう考えてください。

私はASDの親の元に育ったので、かなりの程度まではわかりますが、
身体的虐待や性的虐待の人の状況を全く同じに理解することはできません。
また、早くに親または子やパートナーをなくした人の心情を察することはできますが、同じように理解し、100%で共感することはできません。

ASDの人も一人一人違います。
なので、自分の状況を全部丸ごと、細部までも理解してくれる人はいるはずもないのです。
でもその一部分、何分の1かでも共感したり、理解してくれたら、もうそれでOK、1歩も2歩も前進したと私は思います。


2 本格的な介護が必要となるまでの期間

自分でできる能力を奪わない

同居を始めた頃、母は家事もでき(雑ながら)一人でバスに乗って出かけることもできました。

母は本当のところ不器用で、面倒くさがり屋なので、家事もやってもらいたがっていました。
けれども、心理的も物理的にも距離をとるようになり、食事も自分のは自分で用意する、買い物も自分ですると決めました。
ゴミ出し、玄関掃除も任せました。

助けてほしいと言ってくるまで、医者への送迎、付き添いも一切しませんでした。

一般常識・世間的には冷たいと言われると思いますが、母と私はこれで良かったと思います。
自分のことは自分でするという原則を共有できたと思います。

また母とは昔から買い物や外食など一緒にでかけたことがありません。
母は買い物や外食を楽しむことができないので、互いに無理をしなくて
よかったと思います。

母の突然の病気、けがなどには対応しました。

私は、母に独自のこだわりを強制され、その年齢当時の子どもには無理なことや嫌な事もやらされ、遊びや友人との外出も厳しく制限され禁止されてきました。

嫌なことを強制されてきた相手に優しくするのはとても難しいです。

なので、極力自力でやってもらい、最低限の関わりにすることはお互いのためでした。

私は自分自身が冷静になれるよう心構えとして、高齢者サービス住宅などの職員など第3者の気持ちで接するように努めました。

発達障害(ASD/ADHD)への理解と観察


一方、母がASDと完全にわかった時は、母は生きづらく、大変な人生を送ってきたのだろうと思いました。
また母なりの精一杯を生きてきたのだろうとも思いました。

ASDとわかったことで、母の謎の言動の数々がそうだったのかと理解もしました。

母の不可解な行動の一つに大皿で料理を出したとき、ほんの一口少し残して、それに絶対手を付けないというのがありました。

実家でも、おかずをほんの一口を残し、お皿に移し替えて冷蔵庫に入れて保存することがありました。

大皿料理の時に定型発達の場合、何となく人数と自分の食べる量を把握します。考え込むこともなく普通になんとなくなのですが。

それがASDの場合、わからなくてたくさん食べてしまうことがあるそうです。

母の場合、過去それで怒られたり、叱られたり、冷たい目で見られたことがあったのかもしれません。

お皿に量がある時は、ガツガツというくらい食べて、最後のほんの一口は絶対に残します。
遠慮のカタマリなんて昔はよく言いましたが、あえて食べる気にもならないくらいほんの一口がお皿に残ります(笑)

生活しているとごくごく細かいことがストレスになります。
一つ一つはどうってことのないくらい小さなことですが、それが積み重なると雪だるま方式に大きなストレスになったりもします。

けれど、どうしてそうなのか理解できると違う見方もできると思います。

これはほんの一例ですが、本格的な介護が必要になる時に、この理解の一つ一つは役に立ちます。

もう一例あげると、母は小遣いの現金のお金は理解できるのですが、口座に入っているお金、そこから住居費・光熱費など差し引かれるわけですが、その仕組みを理解していません。

外での会話や受け答えも一応それなりにできる・手紙も書ける、けれど、口座という少々抽象的なものは理解できません。
また公的な住民票のような書類を含む社会システムを全く理解していません。

いわゆるここが発達の凸凹と言われるところです。

お金の話が出たところで、経済的側面は早い段階から掌握して管理しておいた方がいいと思います。
人それぞれ違うと思いますが、金銭感覚も独特なものがあります。
一番困るのは先の見通しや全体としての見ることができないということでしょうか。

デイサービスやリハビリ

母は長年、教会に通っていますが、その他に好んでいく場所はありません。
近所付き合いも自分からはなし、教会、親類以外の人付き合いもありません。

環境もサービスも申し分のない老人ホームをすすめても嫌がり、
骨折後に介護保険を利用し通ったリハビリも勝手にやめる事3回、
高齢者サービス住宅への入居も拒否などなど

母は教会以外への世間に恐怖感を持っていたのだなと今は理解しています。

ASDにとって定型発達がメジャーの世界はわからない世界で、なじめないのだろうと思います。
(こう書きながら、自分の子どもにあっちに行け、こっちに通えとさんざん押し付けたな・・など思ったりもしますが。)

大人の発達障害への理解が進めば、老人の発達障害への理解もすすんでいくだろうという希望はあります。

地域差やケアマネージャーさんや介護関係者の個々人にもよりますが、発達障害という言葉を使わなくても、こういうことが苦手でこういうふうにできません と説明すれば理解してくれる人もいると思います。

今はまだまだ先の話になると思いますが、
発達障害を持つ人向けへのサービスができるかもしれません。

発達障害の人も長い時間がかかりますが、社会的、情緒的な成長が全くないわけではありません。

教会以外の人との付き合いがなかった母が、10年の間にそれ以外の人に挨拶やお礼を言う事ができるようになりました。

家族の私が「おはよう」など挨拶してもかえってこないですが 笑


3 本格的な援助や介護が必要になる時

援助や介護はどうする?

母は最近、自分のごく身の回りのことはできるけれども、自分で食事を用意することが難しくなってきていました。

掃除などもすでに行き届かなくなっていましたけれど、私はやりませんでした。
正直に言うとできませんでした。

母と密に関わると、どうしても過去の嫌な記憶の周波数に同調して苦しくなってしまうからです。
同時にやらないことの罪悪感も時折ありました。

いわゆる毒親育ちの人は思い当たることがあると思いますが、親は子どもに罪悪感を抱かせるような言葉や態度で子どもをコントロールしようとします。
自分の問題を子どもの問題にすり替える、背負わせようとするともいえます。


母のために外部のサービスを利用したいけれども、ASD故の特性のために既存のサービスやホームを利用することを嫌がり拒否するので、私は八方塞がりに感じていました。

これから先、医療との関わりもより増えてくるかもしれません。

医者など医療関係者は、家族は状態がよくわかるだろうと、家族に聞く事もあります。
けれども、実のところ家族に報告、連絡、相談もなにもないので、家族だからと言ってよくわかるわけではありません。

病院などの付き添いにしても、感謝されない事はわかっていても、例えば診察券放りつけて無言で会計してこいという態度をされたりすると、人間ですから気分は悪くなります。

そういう経験が重なると嫌でも、過去の記憶、私が具合いが悪い時に「なってない」と放っておかれたり、具合いが悪くて行きたくないと何度も訴えたのにも関わらず、山行きのオーバーナイトハイキングへの参加を強制されフラフラになった事など、嫌な記憶のオンパレードになってしまいます。

半ばあきらめた状況の中で、あることをきっかけに『何か道はあるはず、何もかも自分で背負い込む必要はないはずだ』と前向きに思うようになりました。

(この部分はまた別記事にします。)

4 家族代行という選択

家族代行

母との物理的距離はは最初は同居からはじまり、次はいわば家庭内別居、次は2世帯住宅 と変化してきました。

次は完全な別居 という選択肢が浮かびました。
母は身の回りのことが自分できるので、母用の小さめのマンションを探し始めましたがなかなかうまく進みません。
90歳以上の一人暮らしですからいろいろな条件があります。

その時期、ふと毒親や介護関連の記事から、家族代行をしてくれる団体を知りました。

早速アポイントを取ったら、その2週間後に飛行機の距離だったのにもかかわらず聞き取り&面談に来ていただくことができました。

他の依頼者の状況は詳細はもちろんわかりませんが、私のように親とのコミュニケーション(ASD?毒親?)に困っている方が少なからずいるようでした。
そのこともあり、こちらの状況も理解して下さり、契約してお願いすることにしました。

それから母の行き先を決めるまでは一月くらいの時間がかかりましたが、母はとある高齢者サービス住宅に入居することができました。

発達障害に理解のある施設という事で探して頂き、2,3の候補の中から歩いて買い物、教会がそばにある、予算などから決めました。

入居する時も私がこちらの空港で送り出し、行き先の空港に迎えに来ていただくことができました。飛行機の距離の引っ越しをなんとか無事にできたのが本当にありがたかったです。

ここに至るまでいくつもの過程、選定、契約、書類の行き来、引っ越し業者とのやり取り、他もろもろ、連絡を密にとることでスムーズにすすめることができました。

過去の施設入居を嫌がった経緯をお伝えして、どのように母に伝えてどのように説明するか対応策を協議しながら進めることができました。

母・本人は混乱はありましたが、今は週2回の3時間程度の訪問をしてもらって、冗談なども出るくらいなじんでよく話しているようです。

訪問していただいている時は、身の回りのこまごまとしたこと、朝食や昼食づくりを一緒に、生協の注文チェック、誕生日の時はお祝いまで。

他 診療・ワクチン接種の付き添い、買い物、教会の外出の付き添い

様子を見たり聞きながら、私にはできないことをたくさんしていただいています。
母にも私にもこの選択は良かったな、ベストだったと思いました。

今後は母の様子を見ながら、訪問を減らすのか、このままいくのかなどなど決めていくことになると思います。

また、家族代行の方たちだけでなく、家族代行の方が間に入ることで施設の園長さん、お医者さん、たくさんの方が母に関わって、連携がうまくいっているようです。

家族よりも第3者の方がスムーズに伝わることもあるのではないかと思います。

私自身、かなり前ですが発達障害のお子さんと関わってきた経験があります。
教育も介護も家族の負担が重いケアよりも、大勢の人が関わってチームとして連携していくことの方が本人にも家族にも、メリットがあると思います。

そしてまた、現場で働く人にとってもよいのではないかと思います。


許可を頂いているので家族代行などをしているLMNさんのリンクをはります。
個人事情があるので多くの情報をHPに掲載することはできないそうです。
気になる方は一度相談してみるのも良いかと思います。


5 家族(生き方)は多様でいい


さて、最近は大人の発達障害が少しづつ知られるようになり、パートナーシップ(夫婦)、仕事選び、職場などの環境、いろいろな情報が増えてきました。

本人の周囲のパートナーあるいは家族など身近にいる人が適切な意思疎通や関係性を築けずに、
その心的ストレスから不安障害や抑うつ状態といった症状が起きることがあります。

カサンドラ症候群といいますが、これを心理学的な正式名称ではありません。

典型的なものは夫がASDで妻が定型発達で、妻がカサンドラ症候群に陥るパターンです。

カサンドラ症候群からの回復は
ASDの知識を得る、
互いの行動を理解しルールを決める、
距離を置く、関係性を変える、
専門機関に相談など

私がやって来たこととかなり重複しています。

ネットや本などの情報で見る限りですが、
夫婦などのパートナーシップの場合、
離婚という形で関係性を変えたり、
別居して距離を置き夫婦関係が続ける、その場合は周囲の協力も得る(義両親・兄弟・姉妹の協力)
というパターンがあるようです。

親子の場合、
いわゆる毒親との絶縁はこれは離婚に近いパターン、
親を施設などに入所してもらい、やれる範囲のことをやるが、
別居して距離を置きながら夫婦関係は続ける 
にあたると思います。

日本の場合、家族の関係性がとても密でウェットな感じがあると思います。

大家族制、家父長制の名残、他儒教の影響などもあると思います。

母(ASD/ADHD)を見ていると人といることに大変気を使っていて、その反面か家族(子ども)には全くの気遣いのなさがあります。

家族には何を言ってもいい、何をしてもいいと思っているようにさえ感じてしまいます。
2世帯住宅にした時、一人の時間がたくさん持てたと思うのですが、母の人生の中では落ち着いて過ごせた期間ではないかと思います。

私自身も子育ても完全に終わり空の巣症候群になるかと思いきや、それよりも一人の時間はとても気楽だと感じますし、
これから自分の時間をどのように使っていこうかという期待や希望も持っています。

家族はポジティブに考えると、「共に助け合い健康的な生活をおくる」ですが、個々の特性によってはネガティブな側面も出てきてしまうと思います。
狭い人間関係の中で偏った考えや意見によるルールができてしまうこともあると思います。

また、明るく助け合う幸福な家族と描かれたような典型的な家族像に無理やり合わせようとして苦しむ場合もあると思います。

これからは、それぞれが生きやすい形を自由に選択できる時代になってほしい、そうなると期待を抱いています。


最後までお付き合い頂きありがとうございました。


自分の実体験をもとに書いています。 悩むことも迷うことも多かった、楽しんできたことも多いにあった 山あり、谷あり、がけっぷちあり、お花畑あり、 人生半分以上過ぎたけど、好奇心はそのままに 何でも楽しむ気ありありです。よろしく!!