壬申戸籍開示への道

※加筆中 漸次更新します(出典等未記入の由ご了承願度存ぜられます)

壬申戸籍開示への道

おことわり

先ず第一に吾人の研究は在野にて且つ法律には皆目詳しくない。ただ、学問への渇望こそがこの稿を起こさせた唯一の動機である。したがって以下に記す言論の一切の真偽は保証しない。

「答申書」の内容


平成17年4月28日に「特定個人に係る明治五年式戸籍の不開示決定(行政文書非該当)に関する件」と題する答申書が出ている。
「今直ちに一般の利用可能性を前提とした上記の歴史的資料とすることは困難であり,また行政文書非該当性を安易に認めるべきでないことはもちろんであるが,上記のような本件対象文書及びその保管状況等の特殊性を考慮すると,本件については行政文書非該当とするのが最も適当であるとの結論に達した」らしい。
先ず、本件対象文書は本来的に学術に大いに資する記述が認められる箇所と、現代においても人権侵害に当たる箇所があることは確認したい。学術に資する部分というのは、地名、苗字、地勢、先祖等あるが、今回は先祖溯上における家歴調査を第一の目的とすることにする。そして人権侵害に当たる部分というのは、部洛、身分、犯罪歴、宗教に関する記述である(部洛が記されている戸籍というのは本当はごく一部らしい[c])。
しかしその人権侵害の可能性のある箇所を開示しないために学術に大いに資する記述が認められる箇所を開示しないことは、憲法が保障する学問の自由に反するのではないかというのが本論の主題である。

「公」とは

自分の先祖が部洛民であるか、犯罪を犯したかというような事柄の開示については、専ら個人の意思が決定するもである。自己決定権みたいなもので、自分が部洛出身か知るのも自由であり、江戸時代の身分を知るのも自由である。団欒の膝下の裡に、うちの家は嘗て武士だった、農民だった、或いは薫陶を受けた軍人だったなど聞いている人もいるかもしれない。

そうした身分に関する事柄を「本質的に」知ることができない筈がない。それが歴史的に事実であり、情報であるからである。自分の先祖の身分、若しくは犯罪などが仮に明かされたことで嫌悪の念を感ずるのは、自分の生年月日で以て天国行か地獄行かというあの幼稚園児の遊び同様、個人の感情の問題で、見たくなければ見たくない人は見なければよい。見たくない者があるという事は見たい者もあるということで、共に個人の感情から発する故に、先祖の如何なる身分でも、何人も知ることを不可とする公理は抑々不毛であるべきだ。また、部洛を開示することで人権が侵害されることは、その開示が不特定多数に情報が流れることで、部洛民とされる集団が差別されるからである。

一方これは、万が一部洛の記載があったとしても、「公開」されるわけでは決してなく、現行の戸籍の申請者に制限があることと同じである。「これが公にされた場合には,今日なお人権侵害の問題を生じるおそれがあるものと認められる」というが、戸籍を請求したところで「公に」したとは云えず、況や「人権侵害の」生じる恐れもない。抑々戸籍は公開されているのだろうか? これは云わばダークウェブのようなもので、人のアカウントに勝手にログインできない様に本人でないと閲覧できないのと同じである。直系の者以外が申請する場合は委任状が必要だが、委任は当然本人が決定する事である。弁護士などが業務上必要と見做されるときにだけ請求が可能ではある。しかし現実的にいえば、壬申戸籍を請求する人はそこ迄多い訳ではないことが安易に予想され、というのは壬申戸籍迄戸籍を遡って請求する必要性が日常的に起こる可能性はほぼないのであるから、彼らが知ることもない(「東京法務局の業務のために利用された事実がないばかりか,およそ何人の利用にも供された事実がない」ともいっている)。このように壬申戸籍を「公に」せずして、直系尊属のみが請求することは可能である。紛失で「公に」なるという可能性を主張する者がないではないだろうが、役所だけでの確認にするとか、紛失は自己責任とかいう規則を設ければよいだけである。開示の際に職員がそれを目にする可能性についても、法務局支局長などの信頼できる誰かに代行して貰えばいいかもしれない。

しかしこのことが幾ら正しかったとしても、国が「ヘイヘイ」と二つ返事で承知するとは到底思えない。どれだけ理に適ったことを云おうとも、ナンラカの複合体で構成されているそれは、一方の意思で他方が追随する仕組みとなっているがために梃子でも動かない。次章の後に詳述する。

決定の違憲性


「法に定める開示請求制度は,何人に対しても等しく行政文書の開示請求を認めるもの」と述べている。学問研究の自由並びに自己のアイデンティティに関する精神の自由が憲法で保障されている以上、それは「何人に対しても等しく」侵害されているといえ、「何人に対しても等しく」認められるべきなのである。国家権力が学問的活動とその成果について禁止することは許されない。学者たる者の研究は「真理探求のためのものであるとの推定が働く」べきである[a]。学問の自由が最小限度の範囲で規制されるとの意見がある。これはクローン人間などに代表される、先端科学技術による生命倫理の侵害について云われているものである。確かに部洛や身分という字面を見ると倫理的な問題が絡み勝ちであるかもしれない。しかし先述したように、飽く迄ごく個人のあいだで完結しうるものであり、「公」になり、差別問題がより顕著になることはない。学問の自由の制限はそういった文脈で提示された概念であり、この問題にぶつけることは不適であると言えよう。
ここで以て明らかにすべきは、学問の研究が公の機関の決定によって不可能になっている点である。吾人は先祖調査をする者であるから、歴史・系譜・民俗的な観点で述べるが、壬申戸籍には先祖の「本籍地・上代先祖の名・生没年月日・養子元」等の情報が、而も明治19年式戸籍以前にしか記載がない記述が数多くみられる筈である。

現実的な解決へ向けて

アブダクションにはなるがメタなことを云ってしまうとぶっちゃけ、部洛発見に戸籍を使っているという事を聞いて「ヤバいから手っ取り早く封印しとこうぜ」「差別許さんぞ儂あ怒っとるぞアピール」という因循姑息感が否めない。また、四民平等が当たり前な時代に法務局たるものが一国民に対し「お前は部洛出身だ」的な資料を示すのは一寸違うだろう、みたいな意図もあるだろう。「こともあろうに、役所にこんなものがあろうとは」である。

さすれば別のアプローチを考えよう。この答申書では本件対象文書の「特殊性」が大きな歯止めとなってその開示を妨害している。しかし逆に言えば「特殊性」を打破しさえすればこれは開示されるべきである。ということは、弁証法的に不都合な記述を省き学術に有益な部分を抽出するという方法が考えられるのではないだろうか。具体的な例として、壬申戸籍を請求する人は事前に該当法務局にその旨を申し出て待機。そのあいだ職員は職権でそれらを伏字にする、または賤民の記載を改写して新たに改製し、原本は焼却するなどいうことが挙がる。
それが、自分の親戚である戸主とその家族構成、生歿年月日等の情報を得ることが何等個人の権利を侵すものでないという現行の戸籍と同じ性格を持つ文書である以上、本件対象文書は開示が妥当と云える。
確かにこの手法、というより壬申戸籍を仮にも開示することになったとして、厳重な封を切って探し出したり、いちいち書き写したりするという職務は、面倒であり甚だ疎んぜられるものかもしれない。だがその煩雑さという半ば感情的な理由によって、再三いっているが、学問研究の自由を害するのは全く不適当である。

我々先祖調査を行う者はその塗抹に特段辟易することは無いだろう。なぜなら、それら伏字の内容よりも多い量の情報が得られるからである。さらにいえば、他の文献を中れば伏字部の記載の推測が立つかもしれない。

1967年10月3日、朝日新聞朝刊の例の投書の「日本中の市町村に、こんな戸籍を残しているところがあったら、法務局の命令で、いっせいに破棄していただきたいと思います」「和歌山地方法務局を通じて法務大臣あてに壬申戸籍を全部廃棄したいという申請を出した」[b]とあるがやはりこれも、被差別的な記載を塗抹することに言及がない。何と磊々落々なことか。

おわりに

私は何も無理難解なことを云っている訳でも斬新奇抜なことを云っている訳でもない。至極普通に考えれば当然の帰結というべき代物である。
ここで私が言いたいことは「壬申戸籍開示に向けてより活発に意識を高めるべきである」ということなのだ。たしかに上のように答申書なるものが幾度と提出されたが、毎度々々紋切型のような文句で突ツ撥ねられているではないか。Twitterに於いては、管見の限りでは所謂先祖界隈という人たちの中で、そのように壬申戸籍開示を強く訴えている人は全くといって差し支えない程居ない。やっぱりどうしようもないから、仕方ないことだからといって端(はな)から諦めてしまう。このような不当な判断に何の疑いの目も向けない緩慢な心持ちでは、汝らが夢に迄見た開示は正に夢物語と終ってしまうではないか。
コンナ事を言い出すとお前が遣れとでも云われるかもしれない。しかし私にはすることのできない、というより寧ろ絶対にしてはいけない理由がある。私よりももっと法律に詳しく、もっと妙計な奇策を按じ、他方面に博識な同志が居る可能性だってあるからだ。冒頭に書いた通り法律やお役所仕事なぞに全く疎い私がモノの弾みでシャシャリ出て、コテンパンにタタキノメされでもして余計な判例が出ては堪ったものでなかろう。開示までを距離を盛大に迂遠せしめることになるのは、俺のことをいちばん理解しているこのワタクシあると自負している。法律を勉強する余裕があるほど暇でないし、それをさせるくらいの興味も持合せていない。いや逆に私のような人が大半であるに違いない。であるからこそ「より活発に意識を高めるべき」であって、開示を強く訴えるその気魄を盛んにすべきなのである。そうすれば誰か法曹に関わりのある人物の眼に留まるナンということも期待できないではない。
そのような訳で、我々はその気魄を盛んにし、そちらの方面に自身があって志を同じくする人は是非とも訴訟か何かしていただきたい。

余談: 人権

余談だが、任意の国民が賤民であるということをことが仮にもしあったとしても、そうであることは全く悪い事ではない。
身体障碍者の差別問題など他でもいえる事であるが、身体障碍者が悪いのではなく、それを差別する者がいちばん悪いのだ。端的な話、背が小さい人に「あなたは背が高いです」というのは間違っていて、嘘も方便では通用しない程の問題を抱えている。「背がどんなに小さくてもあなたはあなたらしく生きていく価値がある」のであり、これが真個の人権である。法律を犯さない限りどんな屑野郎でも人間として生きていくことができるのに、ましてそのような人など悪いことは一つもしていない訳である。差別に利用される手段を幾ら遮断したところで、差別をする者は別な手段を講じて差別を繰り返すだろう。新しい手段を遮断すれば、又違う方法を考える。これではいつ迄経っても差別は終わらない。「障害」を「障がい」と書くのもそうである。まことに連想によって思考を逞しくする者が多いことだ。
吾人は平和主義者であって、人権思想を大いに支持する。であるからこそ、かのようなある意味ヒキョウとでもいえるような方法を嫌いである。
人権問題を解決する本当の近道は、個人の中で芽生える。往古の未来は、最早未来ではない。そろそろ人類は当然の感覚を備えても好い筈である。

(附録)80年廃棄、150年廃棄……

本章は別稿をそのままコピーしたものです。他の章との脈絡がないかもしれません。。。

明治19年式戸籍は取得しうる最古の戸籍であるが、各地方自治体によっては所謂80年廃棄という惨事(!)が発生しているようであり、大正時代の戸籍までもがその政策の火焔の焼却するところとなっている。

公的機関による我等が先祖の記録の抹消は、たとい業務上の事由があろうと容易に断行すべきではない。なんとなれば先祖の記録は、自己同一性の重要な手掛かりとなりうる身近な手段であるのに加えて、非常に家族や個人に関する内的な問題を孕んでいるからである。殊に戸籍と云えば、それの最も基礎的な箇所に位置するものである。過去の記憶は消せば再び蘇ることは無い。これが自明の事実であるにも拘わらず我が数代前某氏の記録は確実に消し去られた。戸籍が無ければ「先祖調査」は前途多難疲労困憊を極みを蒙ることは火を見るよりも明白ではなかろうか。

戸籍廃棄は広い意味で公による私からの略奪といっていい
記憶の略奪である!

プライバシーの保護などと馬鹿げたことを言ってはいけない。プライバシーの権利は既に死後百数年経ったのちに帰するところは直系卑属とするところが妥当ではなかろうか。況や「ざんねんな偉人」などいうプライバシー保護の破片もない書籍が書肆に置かれるに至る迄だ。だがそれは概ね歴史学という学問が「プライバシー」の侵害といってもおかしくない要素で構成されるものだからである。歴史上の偉人にあっては、或る人の残虐不倫なる精神を公然に晒し、或る人の汗顔無地なる私生活をして耳目を驚かしめる。このようなことは凡そ、斯かる人を明らかにすることで彼らが所属するアイデンティティであったり、精神的充足を長期的な意味で満足させるために必要であるものである。プライバシーの権利は或る一定の区間を以て劃せねばならない。すなわち先祖の戸籍を取得したところで他者への危害が如何にして約束せられようかということである。

プライバシーという無敵の盾は、アヘン戦争が清が眠れる獅子ならざることを暴露したように、断々乎として破壊せねばならないと云わねばなるまい。

デジタル化の進んだ現代ならば情報の保管は以前より簡単であるだろう。戸籍の保存期間が150年に延長されたが、抑々戸籍を廃棄するという事自体が、一個人の生存の証をこの世界の、宇宙の忘却の彼方へ追い遣っているということに何ゆえ気が付かぬのであろうか!

!!!コピミズム萬歳!!!

引用は可読性の都合で句読点を省略したところがある。
[a]http://sloughad.la.coocan.jp/const/ckak/coms/kb300.htm

[b]壬申戸籍始末,牧 英正,1985同和問題研究: 大阪市立大学同和問題研究室紀要. 8巻, p.1-34.https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00000452.pdf 
[c] 『部落の過去・現在・そして…』p.109(阿吽社、1991年),https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E6%88%B8%E7%B1%8D#cite_note-3

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