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多様な人とやっていく

私たちは、目の前にある物を、隣に座っている人も見てると思ってしまいがち。
隣の人にも同じように見えていると思ってしまいがち。

だから、「あれ、なんでしょうね?」と隣の人に話しかけてしまう。

そのとき、隣の人が目が見えなかったとしたら?
目の見えない人は、あれ、と言われてもなんのことかわからない。

目が見えないということに気付くことができれば、
「あぁ、今ね、目の前に花が咲いていて、
赤くて小さな花なんです。
それがなんの花かなと思って、つい話しかけたんですよ」と伝えられる。

ところが、相手の目が見えないということに
気づけないことがある。

「え?なにがですか?」と聞かれて、
「あれですよ、あれ。赤いやつ」と言い続ける。

しまいには、ヒートアップして、
「なんでちゃんと見ないの!」と怒り出す。

そこで初めて、目の見えない側は、
「あぁこの人は、私が目が見えないっことに気づいてないのか」と知り、
「目が見えないので、わからないんですよ」と伝える。

でもヒートアップした人は、
その事実をなかなか受け入れられない。
キレちゃったので引っ込みもつかなくなってたりする。


もちろんこれは、例え話です。
こういうこと、よくありませんか?


先日も、同じことがありました。私は目の見えない側の人だった。

相手が、「あることをする必要性」をずっと訴えていたんだけど、
私にはその必要性が受け取れなかった。見えなかった。
私の価値観ではそれが必要だと思えなかった。

ある状況において、なにが必要か、ということには、主観的な判断を伴う。
Aという状況にあるとき、
「いますぐBが必要だ!」という人と、
「いや、Cのほうが必要だ!」という人がいる。
それが、人の考え方の違い。
価値観の違い。
多様であるということ。
10人いたら、グラデーションで10通りあるはず。

世の中には、いろんな人がいる。
だから、自分が思っているのと同じように、
みんなも考えている、と思っていたら、腹が立つばかりで、
多様な人とやっていく、なんてできない。

これはとってもとっても当たり前のことなのに、
私たち日本人はとくに、「みんな同じ」と思いがちだと思う。

私は、
「なぜBが必要なのか教えて?」となんども尋ねたのだけど、
相手は、「Aの状況なんだからBが必要に決まってるでしょ」と、
何度きいても状況の説明しかしてくれなかった。

もう少し詳しく分析すると、
私たちの頭のなかでは、
「Aの状況では、(B’なので)Bが必要だ」
というふうに考えている。
私は、「Aの状況では、(C’なので)Cが必要だ」
と考えている。

私が、
「なぜBが必要なのか教えて?」と尋ねるとき、
B'の部分を教えてほしくて、そこが見えないので尋ねている。

私の頭の中では、
「Aの状況ならC'だよね。なんで急にBが出てくるの?」というところで、
発想が止まっている。

私の側も、
相手がBというのには、きっとB'があるんだろうと想像はしている。
だから、B'を教えてください、と頼んでいる。

だけど、相手は、B’の部分を、
無意識のうちに、「誰もが当然同じように考える部分」として、
終始、説明を省いていたんだと思う。
だから、「だってAの状況なんだからBに決まってるでしょ」の
一点張りだった。


さんざんこじれて、
さんざんやりあったあと、ようやく、その人は、
B'の部分を言葉にしてくれた。

なるほどなぁと思った。
「それを最初から言ってくれたらわかったよ」と伝えたら、
「言ったよ!でもあなたがちゃんと読んでなかった(聞いてなかった)」
と言った。

・・・記録を遡ったけど、
それを言っている事実はなかった。


先の例で、
「あれ、なんでしょうね」と話しかけたか、
「あれ、なんの花でしょうね」と話しかけたかは、
話しかけた側は、たいして意識していない。
やりあっているうちに、「言ったか言わないか」なんて、
曖昧になっていくものだ。
だって、それが花だという事実は、この人にとって当然すぎることなんだから。

でも、「花」って単語が出てこなければ、
目の見えない人にとっては永遠になんの話がわからない。

そういうことが起こっていたと思うんだけど、
相手は疲れ果てて、
「私の言っていることをちゃんと読んでくれず、聞いてくれず、
悲しかった」と伝えられた。


うーん・・・私が悪いのかぁ。
私は、どうしたらよかったのかなぁ??


すれ違いはいつだってどこだって起こる。
だって、みんな見えているものが違うのだから。
価値観が違うのだから。
私たちは、多様な個人なのだから。

それを、悲しい、で済ませないで、
感情論で終わらないで、
言った・言わないの不毛な議論に持ち込まないで、
どっちがいい・悪い、という観点を持ち込まないで、
なんですれ違っているんだろう?って、
それぞれの前提を丁寧に見ていくことが、
社会を変えてくってことだと私は思う。

それが本当の意味で、
多様性を大事にするってことだと思うよ。

それをするには、膨大な時間がかかる。
多忙で、効率主義をよしとしている社会の私たちは、
「そんなことやってられないよ」って思う。
やっているうちに疲れもしちゃう。

でもそこやってくしか、ないのかもしれない。



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