父と娘 空の旅
またまた帰省した時の話である。父親と晩酌しながら昔話をしていた中で、心にじんわりきた話を紹介したい。
前回は大学進学で上京する日の兄についての話を書いた。
今回は母や父が何気なく語っていたことである。本当に何気ないことで、今までなら気にもしない話だっただろうが、二児の母親として感じることがあったので記しておきたい。
中越地震があったのは、2004年10月23日。私は高校3年生でまさに受験生真っ只中であった。地震の影響で上越新幹線は脱線し、復旧するまでかなりの期間を要したように思う。
大学は音楽の道を志しており、当時は東京芸大の先生のレッスンを受けに東京に通っていた。
新幹線が使えなくなり、郡山経由でバスで6時間くらいかけて行ったりしていたが、バスの中ではひたすら受験勉強、ひどく疲れるしうんざりしていた。
そんな中、新潟空港から臨時で飛行機が飛ぶというのである。後にも先にも父と2人で出かけたのはこの時だけだったような気がするが、この新潟・東京間の短い空の旅を父と一緒にした。これが私の人生初の飛行機であった。
ジャンボジェット。とても大きな機体で全く揺れなかったのには驚いた。空を飛んでいるのに飲み物のサービスがあるのにも感動した。
私は直前まで「落ちる落ちる、怖い」と言っていたらしいが、空港に無事に着くや、「全然揺れなかったー!飛行機ってすごいね!」とそれはそれは感動していたらしい。
その時の様子を懐かしそうに語る父の顔はとても幸せそうだった。娘との初めての2人旅、きっとそれなりに楽しかったのだろう。
その日の夜はハイテンションで帰宅し、「飛行機すごいんだよ!」と目を輝かせて母に報告したらしい。「嬉しそうに帰ってきたわ」と母もまた、笑いながら懐かしそうに語っていた。
そんなに飛行機に感動したんだっけ?と、実はあまり覚えていない。だが両親の嬉しそうに懐かしむ顔を見ると、あぁ、私もこの人たちの子どもだったんだなと当たり前のことをふと思う。
当の子どもはよく覚えていないけれど、親は一瞬一瞬をよく記憶しているものだ。
今の時代はすぐスマホで写真や動画が残せるから、簡単に当時の思い出が再現されるが、当時はそんなものはない。
形に残っていないが、両親の記憶には刻まれている。いや形に残っていないからこそ、きっと、より尊い。
どんな服を着ていたっけ。思春期の私は父とどんな会話をして飛行機に乗っていたんだろう。もう20年近く前のこと、父も若かったろう。まだ現役だったはずだ、私のために休みを取ったのだろうか。
色々と想いを巡らす。
◇◇
余談だが、私は大学で音楽(ピアノ)を専攻していたので、一人暮らしのマンションにグランドピアノを置いていた。ただこの「グランドピアノを置けるマンション」を探すのがまた至難の技で、音大が多いエリアはほぼ空きなし、エリアを外すと通学が困難、そもそも受験シーズンは競争が激しくかなり厳しい状況だった。
ここでも父が大活躍した。受験前から不動産会社や担当営業と密な関係を築き、私の合格発表(国立大・後期日程だったため、その時点でかなり厳しい状況)がされるや否や不動産に連絡し、なんとかして無事に部屋を確保してくれた。
「あれは本当に大変だったて」と晩酌しながら懐かしそうに語っていた父。当時はなんとも思わなかったが、今となっては東京や音楽の世界など全く知らない田舎の親が、どれほど大変だったことかと頭が下がる。
父はいつも、とにかく私が無事に、快適に生活できるよう必死に動いてくれていた。
父親にとって、娘は可愛いもの。娘は特別。とよく言うが、我が父もそうだったのかもしれない、と今になって思う。
8ヶ月になった娘を見る。旦那もそんな風になるんだろうか。今は想像もつかないが。
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