ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、「新しい古文書学者(『知の考古学』)」について③--言表の規定
前書き↓
①↓
②↓
前回確認したのは、言表がとある体系を指示しているという理解だ。さらに、ドゥルーズは言表の規定を試みる。
言表は事実上、稀少であるし、理論上も稀少である。
ドゥルーズはまず、理論の問題を論じる。稀少性の法則は言表を命題と文に対立させる。
タイプにしたがって、論理学は第一に、命題を他の命題の上に置く。理論的な上位に位置づけるわけである。
第二に、論理学は可能性と現実性を区別しない。したがって、現実に言われる事柄は可能な文を否定することに由来する。ドゥルーズはこの可能な文をフィクションの観点から理解する。現実の文には、この文が言わないことすべてがある。つまり、それは仮想である。
仮想は「隠された言説」、つまり理論上の価値をつくる。ここには、理論の経済学がある。経済学があるというのは、ここから意味が増殖するからである。
他方で、言表は数学に関係する。言表は稀少性の空間と切り離せない。この空間にも、経済学がある。しかし、この経済学は論理学とは異なる原理にしたがっている。というのも、言表が節約の原理にしたがって配分されているからである。
次に、ドゥルーズは事実の問題を論じる。論理学とは異なり、言表の領域に可能性はない。そこでは、すべてが現実である。ドゥルーズは以下の表象を重要視する。つまり、あるとき、ある欠落をともなって、稀少性の空間にまさに現れたものである。
なお、言表には、論理学同様、対立関係も階層関係もある。ドゥルーズは論理学に抗して、数学によってこれらの関係を規定する。
まとめると、稀少性は言表に固有の「実定性」を形成するのだ。
この「実定性」は、どこまでも現実でありながら、原理を有することを含んでいるのだ。
残念ながら、数学によって言表をポジティヴに規定する試みは深追いできなかった。本節の収穫は、ドゥルーズがフーコーとともに論理学のツリーを逃れようとしているという理解である。
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