ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、「新しい古文書学者(『知の考古学』)」について②--数学から言表へ


新しい古文書学者の物語はどう展開するのか。

彼はとある概念を問題にする。つまり、言表である。ここで注釈するように、論理学を無視する。論理学ではなくて、むしろ数学によって、われわれは言表を読み解くことができる。

新しい古文書学者は、これからは言表だけを問題にする、と告げる。〔…〕命題と文にはもう関知しない。〔…〕つねに動きながら、彼は一種の斜線の上に身をおき、この斜線は、私たちがそれまで把握できなかったもの、まさに言表を解読可能なものにするのだ。

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、14頁。

その際に彼が分析する唯一の例は、文字である。それも、偶然に記された、あるいは機械から書き写された一連の文字である。機械自体は言表ではない。しかし、機械に印字された文字列はとある体系の言表である。ドゥルーズにとって、このような文字列は数学における多様体でもあった。

いま彼が分析する唯一の形式的な例は、むしろ人を動揺させるためにわざと示される。それは、私が偶然にしるす、あるいはタイプライターのキーに並んでいる通りに書き写す一連の文字である。〔…〕このような多様体は〔…〕

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、14頁。

一台のタイプライターのキーボードは、言表ではない。しかし、それと同じ文字列、つまり、A、Z、E、R、Tという文字列が、タイピングのマニュアルのなかで列挙された場合、それは、フランス語のタイプライターによって採用されたアルファベット順の言表である。

フーコー『知の考古学』慎改康之訳、河出文庫、162頁。

数学を経由して、われわれは言表なる概念を理解できるということである。現時点の理解は、記号の列がとある体系を指示しているといったところである。

今後、筆者の言表理解は、読書が進むにつれて修正されるだろう。

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