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春琴抄の話(ちょっと痴人の愛の話)

谷崎潤一郎はただの変態じゃない。
すんげぇ文章の上手いド変態だ。

春琴抄は近年文学的価値が見直され、評価の上がってきた作品である。
評価が上がった理由は「日本美を追求した作品」だったから。
今日は春琴抄の凄さと、谷崎の文章の上手さについて語りたいと思う。

まず春琴抄の評価を上げた「日本美」ってなんだろう。
これは、谷崎が「陰翳礼讃」という作品にまとめている。
日本の美は、曖昧で、柔らかく、輪郭が掴めず、重層的で、深みがあることだ。

窓ガラス越しの美女よりも、御簾越しの美女
真っ白なクリームよりも、鈍く光る羊羹
つやつやの食器よりも、鈍色の食器
直射日光よりも、襖越しに柔らかく広がる日光

日本の美っていうのは輪郭が掴めない曖昧なグレーの領域にある。

春琴抄では、徹底的にこの「曖昧さ」の実験がなされているのだ。
その最たる例が句読点の少なさである。
春琴抄では10行以上句読点が無いページがざらにある。
しかも改行は1度もされていない。傍から見たらお経を読んでいるように見える。
これは、文章の「境界」をとっぱらって、曖昧にしたらどうなるかという実験だ。
不思議なことに、境界のない文章はスルスルと頭に入ってくる。谷崎潤一郎の文才なければ実現しなかっただろう。

また、ビジュアル面でも曖昧さは強調される。
例えば、作中に出てくる鳥は、外から姿の見えない鳥かごに入れられている。鳥の声がするから鳥がいると分かるが、鳴かなければただ箱があるだけだ。
ちょっとシュレディンガーみたいだね。

ストーリーではもっと沢山の仕掛けがある。
まず、主人公の佐助とヒロインの春琴、この二人の関係性はものすごく重層的だ。
お嬢様と付き人、要介護者と介護者、師匠と弟子、女と男、神と信奉者…様々な要素が重なって、2人にしかない特別な関係性に至っている。
名前が簡単に付けられない重層的な関係も、日本の美だろう。

また、作中で春琴はある事件に襲われる。その事件の犯人が作中でわかることは無い。真相は曖昧なまま、でも確かにその影響を残して物語が進んでいく。

そして、もっとも注目すべきは春琴の心である。
谷崎作品あるある、男性の視点から物語が書かれるから女性側の気持ちは作品から察するしかない〜!のやつだ。
ただ、この春琴抄に関してはかなりわかりやすい。
春琴と佐助は生涯ひとつの関係性に落ち着いたり、くっ付くことは無かった。
しかし、春琴の佐助に対する好意は明らかだ。
他の人のことは一切名前で呼ばないのに、佐助のことだけ「佐助佐助」と2連チャンで呼んじゃう。
春琴が身ごもった子供はおそらく佐助との子供だ。春琴が良いと言わなければ、佐助が手を出すと思えないので、おそらく春琴から声をかけたはず。

じゃあなんで春琴は佐助と結婚しなかったんだろう。
それは、佐助が春琴を人だと思ってないからだ。佐助にとって春琴は神だ。春琴の言うことは全て正しく、春琴は完璧に美しい。春琴の人間くさい愛や恋に、佐助は全く気が付かないし、きっと求めてすらいない。
春琴は佐助が好きだったから、最後まで求められた「神」を演じきったんだと思う。甘えることも無く、厳しく、美しい女帝であり続けたんだろう。

谷崎潤一郎の作品は女性視点で物語を解釈し直すと、綺麗に筋が通る。おそらくプロット段階では女性から見た物語も作ってあるのだ。
しかし、本編ではその一切を隠して男性視点でのみ物語る。これもまた日本的で美しい。

最後に、私の趣味で春琴抄の春琴と、痴人の愛のナオミを比較しようと思う。
谷崎潤一郎といえば、男性のマゾヒズムを夜に出したってことで話題になった。
じゃあ女性側のサディズムは描かれたのか?というと、この二作品の間で明確に書き分けがされている。
結論から言うと、春琴はサディストでナオミはサディストじゃない。

春琴は先程も言ったように、自分の役割を全うし、神であり続けた。佐助のマゾヒズムに対して理解を持ち、求める苦痛を与えてやった。
春琴が顔に火傷をおった時「見るな」と言うのは、佐助が春琴の美貌を気に入っていたからだ。望む神でなくなるかもしれないから、見ないで欲しいと思ったのだろう。
対してナオミは、譲治のマゾヒズムなんてどうでも良い。ナオミはただ好き勝手生きて、自分が求めるものに素直であり続けた。素敵なレディになって譲治と結婚する気なんてさらさらなかったと思う。
両者の間には明確に違いがある。

なんでナオミをサディストとして書かなかったのかというと、私はナオミには別の役割があったからだと思う。

痴人の愛が発売された1925年、モダンガールが台頭してきた。
本来モダンガールとは、イギリスなどにいる高い教養を持ち、快活で、華やかな女性を指す言葉だった。
しかし、日本のレベルでは真のモダンガールを育てることは出来ない。
女性たちの教育は蔑ろにされ、旦那は高級な洋服を着るが妻は和服しか着られない。メイクをするのは男の為で、まさか自分のテンションが上がるからなんて、当時の生産者は考えていなかった。(当時の生産者は男性でした)

そんな世間に対抗し、日本流のモダンガールたちが「不良少女」的見られ方をしながら台頭してきたのが1925年あたりなのだ。
ナオミのように、ろくに続きもしない英語や音楽を習い、派手に着飾り、恋愛も自由に楽しむ。それがモダンガールだった。
好きな洋服を着れば男を誘っていると言われ、好きなメイクをすれば男を誘っていると言われ、勉強しようとすれば素敵なレディになって妻に…なんて言われる。なんでやねんって話だ。
現代の価値観で言えば、自分で働いて稼いだ金で好きにしなよと思うが、当時の女性はあまりまともな雇用がない。みんな家庭に入るので、お金なんて稼げなくていいだろうと思われていた。

ナオミのようなキャラクターが生まれた意味は、女性たちに科せられた拘束を明らかにし、海外の真似事にすら達せない中で「自分」を手に入れようとする、めちゃくちゃな自立心を知らしめることだったんじゃないかと思う。
男の欲望や自分の立場を利用してでも「自分」を手に入れようとしたのがナオミだ。

ナオミにはどうやらモデルがいたらしく、しかも谷崎はその女性を好きだったらしい。
彼女の魅力はきっと美貌だけじゃない。男性達には分からない戦いをしていて、騙し討ちしてでも社会に男に勝ってやるみたいな挑発だったのかなと思う。
谷崎はナオミを立派なモダンガールとして書かなかった。日本が海外の真似をすることに抵抗があった谷崎。金もなく、教養もなく、ろくな立場も無いくせに自分を高めたい、自由になりたいと傲慢に抵抗する日本流モダンガールに新しい文化を感じたんじゃないかしら。

彼女みたいな人がいたから私達は金が無くても教育を受けられるし、ファッションを自分のために楽しめるんだ。ありがとう。

まぁ、当時そんな読まれ方は全くしなかったんだけど。

要は、一見どっちも男のマゾヒズムを明らかにした作品なんだけど、隠された女性視点に注目すると全然違う側面も見えてくるのだ。

谷崎潤一郎はバリ賢い。本当に文章の上手いド変態なのだ。
最初はおもしれぇ〜変態がいるなって入口で読んでみて。面白いなと思ったら、時代背景や表現に注目してみてね。
文学って何度も何度も楽しめるから楽しいんだって、谷崎を読むと思い出す。

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