母と娘の姑(しゅうとめ)運

 これは、わたしも母も互いに姑に恵まれたとおもっている、という話。
 母もわたしも共通して「姑と同居していない」。だからこそ仲むつまじくただあこがれの存在でいられたという可能性は非常に高いのだが…単純にそんなエピソードがあったということを書きたいとおもう。


 わたしたち親子が育った環境は生活することに必死な経済状況で育った。
結婚しそれぞれ出会った姑は、一方はいわゆるお嬢様であるが、一方は私たち親子とそんなに境遇が変わらないだろうという環境で育ったようだ。
 お互い姑のなにに惹かれたのかという話だが、「じぶんにはない生き方、考え方や行動がまぶしく思えた」と、ただこれに尽きる。
 とても平凡な話なのだけれど、よくある同性の先輩へのあこがれとおなじようなものだ。他からみて平凡におもえることも、自分には特別にみえることはある。


 父は家族からみて浪費家で、晩酌の時間がなにより楽しみな人だった。対し、母は家族の生活のため自分以外になにもかも捧げているようにみえた。
 ある日姑が母と2人きりになった時に「息子は自分の楽しみのためにあんなに浪費している。だから、あなたは自分に投資してもバチはあたらない!」と自分のお気に入りの高価な煎茶を母に差し出したという。
 今の環境でも十分にたのしめることはあると、たびたびアドバイスしてくれていたようだった。
 若い頃旅好きだったという祖父母。たくさんのことを経験していろんなものをみてきたからできる母へのアドバイスは、わたしにはとても素敵なことに感じた。そして現在の母の生き方にもしっかり活かされている。


 対し、わたしにとって憧れの姑。年に1回息子に会いにわたしたちの元へやってくる。が、じつはこれは体裁である。もともと非常に自由な生活スタイルをつらい抜いてきた彼女は、結婚したとたん家に縛られてしまった。
1年間、その年1回の解放日のために家に身を捧げ頑張っている(姑談)。 姑はもちろん私たちの住まいにきたことはない(正確にはなんとか1度、「行きました。息子たち元気でした。」という証拠写真がないと戻ったときに面倒だという名目をつくりしぶしぶ来てもらったことがある)。目的はあくまで温泉・海鮮・観光・そして自分一人きりの時間を満喫し、身とこころを休めるためである。(わたしたちは邪魔にならない程度に毎年お伴させて頂いてます。)


 私にとって姑のどこに憧れをかんじたのかは、やはり「なにがあっても自分のやりたいことはやりたいんだ!という何十年も失われることのなかった情熱とフットワークの軽さ」にあるだろう。だれもが自分に正直に生きられればどんなに良いか。時間がないとか、お金の都合がとかそういう問題ではないのだ。1年のうち、たったの1回でもいい。その一日に自分の欲望を爆発させて日常に戻っていく。
そんな「気持ちがいいひと」に私は憧れているのだ。

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