本の話|孤高な長距離走者の「走る」哲学
その日は、少しずつ姿を変えてゆく目の前の風景に、一歩当たり1コマで撮影されたフィルムを繋いだ映画を想った。中央分離帯が隔てる片側一車線の車道に併設された歩道を走っていると、いくつかのコマの中に1枚あるかないかの割合で、無数の白い小さなノイズが写り込む画像が紛れていることにふと気づく。そこは田園地帯を貫くように敷設された道路。最初は近くで焚き火でもしていて、その灰殻が空中を舞っているのかと思ったけど、瞼の上に一瞬感じた冷たさが僕にその正体をそっと教えてくれた。
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意外にも、プロのランナーは市民ランナーと違って、レース中は風景がほとんど見えていない。著書の中でそう語るのは、2018年のシカゴ・マラソンで日本選手初の2時間5分台の記録を出した大迫傑さん。全体がぼやけたように見えている感覚なので、コースやレースのことは覚えていないことも多いらしい。
走るという行為に対するスタンスは、大迫さんと僕では月までの距離ほどの隔たりがあるけど、大迫さんにとってのマラソンが、自らを形成する骨格のなかで最も長い部位を占める脊椎のようなものだと考えれば、それは僕にとっての仕事ということになるのだろう。そう解釈して読み進めたから、この大迫さんの自叙伝『走って、悩んで、見つけたこと。』には共感するところが多かった。
高校進学のとき、佐久長聖高校以外の学校を選ばなかった理由が、他の高校がちょっとフレンドリーすぎたとか、駅伝だけに力を入れているような印象の大学には行きたくなかったとか。その歯に衣着せぬ大迫さんの物言いに、苦虫を噛み潰したような顔になる人も少なくないと思うが、僕はそれらの言葉の奥底に、アスリートとしての有り様や自分がさらに強くなるための思索が深層海流の如く漂っている気がして、とても興味深かった。
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スポーツ競技にしろ仕事にしろ、人生の持ち時間の大半を費して栄誉なり報酬なりを得ようとするイベントに向き合う姿勢は、あくまでも克己的であるべきと僕自身は思う。ただ単に楽しみたいのなら、そういうことが許される場所を選んでエントリーしたり、余暇の時間を使えばいいのであって、みんなで楽しく働きましょう!みたいな感じに全体がなりつつある今の社会はどこか違う。そういった意味で、この本には本来の《仕事のあり方》というものを再認識させられた気がした。アスリートのバイオグラフィーでありながら、良質のビジネス書とも呼べる一冊。
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