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死についていきなり自分なりによく考えてみる

大病を患ったわけでも路頭に迷ったわけでもないので心配無用なのですが、ふと天井を見ていたら「死を考える時間」がスタートしてしまいました。唐突に死について考えちゃう時間ってありません?ありますよね?

私は割と子供の頃からあって、生まれて初めて「死ぬことはいずれ自分にも必ず訪れる」と気付いたときはショックで数週間落ち込んでしまいました。そこから、死後はどうなってしまうのか(何か感じることができるのか、この意識や記憶はどうなるのか)と色々と考えるも、結局答えがないため「今考えても仕方ねぇや」と投げてしまうのですが……

死後の世界に想いを馳せてもどうしようもないので、今回は自分が死をどんな風に捉えているのか、死についてどんな感情を持っているのかを突き詰めたい。死生観や人生観というほどでもないけど、そこに通じる考え方が出てくるはず。ちゃんと向き合えば何か見えてくるはず。ちなみに私は宗教や特定の思想に属していません。よって、この記事のサブタイトルは『超個人的解釈での死2020夏』になるでしょう。


まず、明らかなのは「死ぬのは怖い」こと。
「(死後どうなってしまうの…?)」と考える時点で根底には恐怖がぎっちりと詰まっている。予備知識なしで迎えなければならない恐怖もあるけれど、何よりも待ち受けているであろう“無”の存在が怖くてたまらない

テレビのコンセントを途中で抜かれて「プツッ」って真っ暗になるあれを想像してしまうけど、おそらく死後は真っ暗闇すら存在しない(認識できない)。多分。本当の無。それがめちゃめちゃ怖い。怖いということも知覚することはない、というのも怖い。不安になることが不安な私の性格をよく反映している。

あーあ…想像しただけでへこんできちゃったわ。

「死=身体機能の完全な停止」なら脳も当然機能しなくなるはずなので、意識や感覚、何かを認識するということすらできない。はず。素人の憶測ではあるけど間違ってはないはず。心肺停止で死後の世界を体験したおじさんとか、たまに世界仰天ニュース系の番組で取り上げられて三途の河だとか天国だとかを見たって話もあるけど、「それは心臓が止まってただけでまだ脳は生きてるからだろ」と思ってしまう。ほんと理屈っぽい男ってやあね。

しかしまあ、なんだか「終わり」をものすごく意識してしまうわけで。

そして、こんなことを感じるようになった。

この「年齢に関する何気ない出来事」は完全に死とがっぷり四つで密接に絡み合ってる。

どういうことかというと、
「無意識のうちに過ぎてる(自動操縦モード)」が増えると、時間がありえないほどの速度で吹き飛んでいく。帰り道いつのまにか家に着いてたり、視聴履歴にあるし確かに見たけど内容がイマイチ思い出せないYouTubeだったり。気付いたら食べ終わってる食事。考え事もしてない上に、記憶にも印象にも残らない時間が増えれば増える(もしくは、自動化されてしまって意識を保つタスクが減れば減る)ほど一日一日の時間は速度を上げる。

意識をすることがやっぱり体感的に減ってきている。
余計な体力を使わず済む効率化が二十数年間生きて色んなことに適用されてきたのだと思う。体力を使うことや疲れることは苦手だけど、この一日の流れのスピード感には怖くなってしまう。

文章を書いてるときは意識をバリバリ働かせているのに、これもまた時間の流れが速い。んー、集中してるから時間経過が早く感じるのはまたちょっと違うかな。なんにせよ「無意識に過ぎる特になんも生み出さん時間」に日常が侵食されるのはヤダね。

充実の度合いは直接時間感覚に影響して、充実していればいるほど時間に運搬される際の重量は増し、時の歯が立たないものになる。口々にリア充をうらやむのは生への執着なのです。非リア充とは川底を転がる小さな丸石であり、リア充とは川底にたたずむ大きな岩なのです。多分。

走馬灯の内容が薄っい感じだったら後悔しかないからなぁ。


あと、私は個人的な思いとして「私が死亡したとき、同時に世界も滅びてほしい」というのがある。人っ子一人残さず終焉を迎えてほしい

危険な思想のテロリストだと思って逃げないでほしい。なぜなら、私は危険な思想のテロリストではないから。カルト信者でもない。ちょっと待って。最後まで聞いていただきたい。

この「私が死亡したとき、同時に世界も滅びてほしい」というのは、本当に「なんかヤダ」という非常に感覚的な思いからなる。自分がいなくなっても続く世界はなんかヤダし、友人や関係者に存在を忘れられるのも腑に落ちない。しかし、現段階はそう思っているが後々もしかしたら家庭を持つようになれば変わるかもしれない。

おそらく年取ればこういうことは思わなくなるんだけど。まあ、まだ死にたくない気持ちの裏返しなのかな?寿命や死へのツンデレかな?はたまたスカスカで孤独な人生に未練を抱いているのか…

誰かの役に立てない・必要とされない人生への畏怖はたしかにあるから、もしかしたらそれが死生観とか人生観ってやつなのかもね。じゃあ、「たった一人のためにこの生を役立てられたら、それは高級な生涯である」とか自作の格言っぽいのも作っちゃお。後世に死生観語り継がれちゃおっと。

死を語ること、話題にすることはどこかタブー視されている気がするけれど自分のこれからのこととして考えるのは割と重要なんじゃないかな。極限的なテーマだから自分自身の本質が見えることもある。私が承認欲求強めであることも露呈してしまった。不本意ながら。

大事な人の役に立って、必要とされるよう生きてみたいと思う。

そうすれば、走馬灯の内容も薄っい感じにはならないはずだ。

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