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【随想】映画『千と千尋の神隠し』宮崎 駿

金曜ロードショー、
『千と千尋の神隠し』見ました。
2001年の作品。
まったく色あせていない。
宮崎駿の絶頂期の仕事。
画面の密度がはんぱない。
『君たちはどう生きるか』でもすごいと思ったが、
まるで比にならないくらいの完成度だった。
色合いも構図もディテールも
すべてが圧倒的である。
庵野秀明も新海誠も画が上手いと感じるが
宮崎駿の凄さは
人間の動きに対する暖かな眼差しにあると感じた。
例を挙げるとすると
千尋がオクサレ様にお湯をかけるため薬湯の札をかけそこねるところ、
千尋がオクサレ様に刺さった自転車に縄を巻きつけるのに失敗するところ、
ネズミに変えられてしまった坊が千尋の肩に乗らず自分で歩くところ、
釜爺が疲れて寝ている千尋にそっと布団をかけてあげるところ、
千尋が湯婆婆のところへ行くのにエレベーターを乗り換えるところ、
リンがカオナシとすれ違いざまに声をかけるところ、
カオナシが電車の水はねで流されそうになるところ、
寝ていた女性が千尋とリンの会話で起こされてしまうところ、
階段を降りる千尋が紐で服を結ぶところなど、
普通なら描写しないような時間を事細かに映し出し、
人間の動き(アニメーション)に対する愛情やキャラクターの性格が表現されている。
その点は、とてもディズニーを彷彿とさせた。
千と千尋がどういうお話だったのか、
今見ると子供の時に見た時とだいぶ違って見えてくる。
千尋は、テーマパークの残骸(バブル景気で自然を破壊したその跡地)で、神隠し(神様の怒り?)にあって、ちょっと死者の世界に足を踏み入れたという話(イマジネーションの世界で食べて寝て働いて、様々な出会いと経験をし、恋をし、結果的に成長して帰ってくる)。
たった2時間で、ほぼ舞台は油屋だけなのに、なんと充実した映画なのだろうか。
『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)を読んだあとだと、
電車のシーンもだいぶ違って見えてくる。
電車に乗っている人たちは名も無き死者たちで、
カオナシもその一人だったのだろう。
名前を忘れられると現世へは戻れない。
死後の世界でも湯婆婆のような経営者が、
死者を働かせて神様のお世話をしている。
湯婆婆に名前という役割(肩書)を与えられれば
死後の世界でも働くことで存在を許される。
そうじゃない人たちは形を失い零体(黒いのっぺらぼう)となって彷徨っている。
魔女である湯婆婆と銭婆は、
死後の世界でも生きられる(不老)力を手に入れているが
それはずっと死者たちを働かせ続けなければいけない宿命も負うことを意味する。
だから湯婆婆は、働きたいものは働かせなければならない契約を結んでしまったことを、
「面倒くさい」と言いながら渋々千尋の頼みを聞く。(面倒くさいは宮崎駿の口癖だ)
銭婆はどんな宿命を負っているのか、性悪女と言われているが
でも湯婆婆と双子で、2人で一つであるとの台詞もあることから、湯婆婆の宿命は銭婆の宿命でもあるのだろう。
永遠の命を魔法の力で手に入れたがゆえに、
永久に油屋を経営して神様や死者たちに奉仕し続ける任を負ったのだ。
一般的な死者たちは油屋には入れないのだと思う。
名も無き、神様にはなれなかった死者たちは、帰る場所がなく霊界を彷徨うしかない。
それなのに、千尋に恋をした名も無きカオナシは、
入ってはいけない油屋に足を踏み入れてしまう。
そして、お客様は神様だと「俺は客だ、千尋を連れて来い」と無礼を働く。
本当の神様たちは、礼儀正しい。
オクサレ様もそうだ。
自分のことを神様だと勘違いした名も無き一般人が、一番厄介な客となる。
死後も名前を覚えられている人が神様になる。
ハクは名前を忘れられてしまったため、神様ではなく従業員として働いている。
忘れられてしまった川の名前。
しかし、千尋が思いだすことで、ハクは神様に戻ることができた。
だから、現世でもまた会うことができる。
人は二度死ぬ、一度目は肉体の死、二度目は人々の心から忘れ去られたとき。
そう言えば『リメンバー・ミー』もそういう話だった。
カオナシは、人々の心から忘れ去られたのだ。
忘れられたくない、覚えてもらいたくて、
千尋に「ほしいもの」をあげようとするが、
押しつけることではその望みはかなわない。
最終的にカオナシは銭婆に居場所を作ってもらえる。
もしかしたら銭婆は、名も無き死者たちのことをサポートしているのかもしれない。
ラスト「千尋、早くしなさい」とお母さんとお父さんに名前を呼ばれる千尋は
名前を覚えてもらえることで、現世へ帰ることができた。

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