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ノイズキャンセラー エピローグ

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エピローグ

 警察から、琴美を誘導し亜沙美を監禁させた人物を逮捕したと連絡があった。
『オーバーナイト』を名乗っていたのは、宮崎琢磨だったことがわかった。忘れもしない、新宿の通り魔殺人事件に巻き込まれて、それきり学校へ来られなくなった同級生だ。
 同じクラスだった頃、宮崎琢磨から嫌な印象は受けなかった。きっと、通り魔事件のせいで歪んでしまったのだろう。
 ひとまず、相手が誰かわからずにおびえる必要はなくなった。『教唆犯』がどのくらいの罪になるのか、亜沙美にはわからない。宮崎琢磨が自由になる前に、できるだけはやく社会復帰をして、他の土地に移りたい。
 春が、近づいていた。
 亜沙美は、気分転換のため散歩にでかけることにした。
 人口の多い場所では、新型コロナウイルスの感染症が流行り始めているらしい。地方では関係のない話だ。
 母親が、「感染予防にはマスクが有効だとテレビで言っていたせいで気に入っているマスクが手に入らなくなった」と言っていた。亜沙美は花粉症ではないので、問題ない。
 しばらく歩いていると、近所に『新山』と表札の出ている家をみつけた。亜沙美は、釣り竿の人の家かもしれないと思った。町名がこのあたりだった気がする。
 責められている間はとても辛かった。しかし、新山が何も悪くないことを、亜沙美は理解していた。
 あれから、釣りへは行けただろうかと気になって玄関の方に目をむけた。
 中から男性が出てきた。
 亜沙美は、驚いて足をとめてしまった。顔をじっと見ている状態で動けなくなった。
「どうかされました?」
 声が似ている気がした。本人で間違いないと思った。もっといじわるな顔を想像していたのに、細身のコートを着て、好青年を絵にかいたような容姿をしていた。
「おはようございます」
 亜沙美は質問には答えず、挨拶をしてしまった。
 不思議そうな顔をしながら「おはようございます」と、返してきた。
「ごめんなさい。玄関の音に驚いて足をとめただけです」
 立ち去ろうとすると、新山に呼び止められた。亜沙美は、あの時の担当者だとわかってしまったのかと思った。
「お近くにお住まいなんですか?」
 これだけ近かったら、亜沙美が実家にいる限り顔を合わせる可能性がある。亜沙美は頷いた。
「こうやってお話できたのも何かのご縁です。少しお待ちください」
 新山がかばんを地面に置いて、中から濃紺の名刺入れを取り出した。それから、名刺を一枚名刺入れに重ねて亜沙美の方へ差し出してきた。
 思わず受け取ってしまった。
『新山 和哉』
 確かに、そういう名前だった。
 亜沙美も知っている外資系の保険会社に務めているのがわかった。
「一度、私のお話を聞いていただけませんか?」
 苦情の内容からも責任感の強いかなり真面目な人物であるのはわかっている。どんな仕事ぶりなのかを見てみたい気もしたが亜沙美は断った。
「実は仕事を辞めて実家に戻ってきたばかりなので」
「そうなんですね」
 新山が笑いかけてきた。
 この優しそうな顔をした人が、裏では、正論で人を責める攻撃性を秘めている。きっと、よほど釣りに行きたかったのだ。
「以前はどこにお勤めだったんですか?」
 まさか質問されるとは思わなかったので、亜沙美は「え?」と、聞き返してしまった。
「遠方でお勤めされてたんですよね」
 亜沙美は、新山を知っていた。しかし、新山は初対面だと思っているはずだ。普通は踏み込んでこない。ただ「そんな質問おかしいです」とは言えなかった。
「家電量販店でインフォメーションをしてました」
 コールセンターにいたというと気づかれるかもしれない。亜沙美は嘘をついた。
「ああ、お似合いですね」
 新山が笑顔で頷いた。
「でも、お辞めになったということは、合わなかったんですか?」
 亜沙美は「向いてなかったんです」と、言った。
 コールセンターを辞めたのは事件に巻き込まれたことが原因ではあるが、亜沙美は、本当に向いていなかったのだと、今は思っている。新山も、まさか自分が指摘したとは思わないだろう。
「私共の会社では、社員のスカウトにも力を入れております……あなたのお名前を教えていただけますか?」
 すでに、いくつかの質問に答えた後なので、今更答えたくないと言い出せない雰囲気になっていた。恐る恐る「佐藤です」と返した。
「下のお名前は?」
 亜沙美は、素直に教えた。新山は気づいていないようだ。
「佐藤さんのその物腰和らかな話し方は、保険の勧誘に非常に適していると思います。一度、社に来て説明だけでも聞いていただけませんか?」
 亜沙美は「考えておきます」と、言った。もちろん、自分に保険の営業ができるとは思っていないが、近所なので、無下にはできない。
 優しそうな顔をしていても、怒らせると怖いことを亜沙美は知っている。
「失礼します」
 頭を下げた後、亜沙美は歩き始めた。
 世界は不思議だ。
 遠くにいると思っている人が近くにいることもある。新山が亜沙美をあの時の担当者だと知らないように、亜沙美にも、亜沙美の方だけがそうと知らない相手が近くにいるかもしれない。
 亜沙美は新山に会って、余計にあの日のクレームが不思議に思えた。行けなくなったことで新山があんなに怒るほど、釣りは楽しいのだろう。
「したことないな」
 久しぶりに海が見たくなったが、歩いて行くには少し遠い。
 人は、誰しも二面性を持っているのだ。琴美もそうだった。
 ひどいことをされたけれど、琴美のつくる料理は本当に美味しかった。
 琴美を殺したのは、芹沢なのだろうか。
 実際、芹沢の失踪の方が早かった。数か月経った今でも、『行方不明の男性の部屋で女性の遺体が発見された』だけで、芹沢は、容疑者とは報道されていない。
 亜沙美は、芹沢がどこかで生きていると、まだ信じていた。あの日、切ってもらった髪が伸びてきた。ふいにそよいだ風に靡く。
 亜沙美は、頬をくすぐる髪を耳にかけながら、もうしばらくは切らず、このままにしておこうと思った。
                                   <了>

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